縄文遺跡‐井戸尻遺跡

八ヶ岳周辺には縄文時代の遺跡が多くあります。
茅野の尖石遺跡では、国宝の「縄文のビーナス」といわれる土偶が発見されています。 ビーナスというよりは、日本人的な四頭身の愛嬌のある土偶です。
しかし、これはこれで色気があり、魅力的なプロポーションです。

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この富士見高原近くの信濃境にも、日本を代表する縄文時代の”井戸尻遺跡”があり、竪穴住居などが展示されています。
井戸尻考古館には、重要文化財に指定された縄文土器等も展示され、付近は井戸尻史跡公園として一般の人にも公開されています。
また、春の公園内は、睡蓮がきれいに咲き、牧歌的な里山風景を見せてくれます。
※ 2018年に八ヶ岳周辺の縄文遺跡群が日本遺産に指定されています。



■  シリーズ :旅の途中! ■ 
色々な景色やモノを見て、色々な考え・色々な人に出会う!


今回は、この縄文文化やシュタイナー教育の研究をしている友人の話から入りますが、本題は ”訳の分からない存在 ”についての”訳の分からない話”です。

友人は、東京/国立にある私立/小中高・一貫校の小学校の教師でした。
そして、私より一回りも上の方で、私の娘二人の恩師でもありますが、友人と呼んでいます。
知り合ってから、三十数年経ちますが、友人といえるようになったのは、
友人が小学校を退職されてからのことですから、二十数年前からになります。
富士見町の”小六”という部落に”庵”を持っていて、度々お会いするようになりました。
娘たちによると、友人(娘たちには恩師)は、いつも訳の分からないことを言っていたとのことです。
このことは、友人になってから分かったことですが、子供たちに”訳の分からないこと”を言い、 ”その中にある訳”を自分なりに考えさせていたようです。
私のところにも、年に一、二回「ぬ~うっと」訪れ、「ぬ~うっと」と去っていきます。
・・・・ その訳を考えさせられています。
時には、ワインなども飲みながらインドや宇宙の話に花が咲きますが、概ね二人で訳の分からない話をしています。

・・・・ 宇宙の殆どは訳の分からない存在! そして、 人生も、訳の分からないことだらけ!
だから、” 訳の分からない人になり、訳の分からない話をする” ・・・ これでいいのだ!  な~んて思っています。


友人は、昔からシュタイナー教育を研究し、実践しています。
そして、青年のようにロマンがあり 且つ、エネルギッシュに、 国分寺や町田、この地の”小六庵”で、にじみ絵やシュタイナー勉強会を開催しています。

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その友人から、久しぶりにメールと封書が届きました。
メールには、現在、縄文文化と縄文人の生活の研究をしているとのことが書かれていました。
近くの信濃境に「井戸尻遺跡や考古館」があり、この縄文文化の学びの場で、
食事や生活、文化、踊りなど多岐にわたり研究しているようです。
封書には、ルドルフ・シュタイナーの研究過程での”こころの拠り所”が書かれていました。

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友人には、
私にとって、いつまでも”フインランドの森の妖精/トントゥ(tonttu)”
のように訳の分からない存在でいてもらいたいと思っています。
また、実利主義で便利を求めすぎるこの世の中!
私も、このような世の中にあっては、” 訳の分からない存在 ” になれるように努力しています。

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” 訳の分からない存在 ”

・・・ ” 話せば分かる !? ”
5.15事件(1932年5月15日) – 犬養毅首相の最後の言葉です。 

自分(または他者)の言っている言葉が、他者(または自分)に、全く違うように伝わっている事があります。 伝わった、分かってもらった! 或いは、納得してもらった! と勘違いしていることがあります。 
言えば、聞いてもらえば、ないしは説明すれば分かる・分かってもらえると思い込んでしまいますが、「言うほどに・説明するほどに!」余計に混乱することも分かってきました。
・・・ そして、”訳の分からない存在 ”になってしまうか、或いは、してしまいます。

《 社会/世界 》では、このようなことばかりがおきています。 何故だろうか?

上記のようなことを、それぞれが無意識にやっている塊! ≫ それが「社会」ではないでしょうか?
「社会」とは、それぞれの方が自分を守る為に、自分の論理を優先して – 自分自身に都合の良いように解釈しながら「生き抜いている場」のような気がしています。 
言うなれば、・・・
人は、自分の都合や理想で組み立てた”物語”の中で生きているのだと思います。
だからこそ、この”塊/物語”の中で生息する我々は、他者や自分の言葉・文面を正しく解釈(理解)し、 そして、してもらう為にも、この現状を「認識」し、正しい思考・視点で 「本を読み、他者の体験を聞き、世界に目を向け、学問をする。」ことが必要な気がしています。
特に、シュタイナー叙述は非常に難解で、正しい解釈には相当な努力が必要だと思います。
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しかし、努力に関わらず! 正しい思考・視点や正しい解釈とは? ・・・ 難しい! 
誰もが、自分は正しい思考・視点や解釈で物事を判断し、認識していると思いがちです。 
ですから!  精神科学・人智学/シュタイナー思想(叙述)を学ぶ前に、 まずは、自分自身と真摯に対話することから始まるような気が致します。



そこで、シュタイナーが述べている ”精神科学” についての概略説明をします。

Rudolf Steiner 

”自然科学” <・> ”精神科学” ・・・ ☆ Geisteswissenschaft / Anthroposophie ☆ 

デカルトの方法論〈自然科学〉は、文明を驚く勢いで進化させ、物質的な豊かさを人々に与えてきた。 この点については誰もが認めるだろうが、 時代はその進化の過程で振り落としてきたモノに着目し始めています。 
”自然科学”は、人間の外面/表象を取り巻く、物質やエネルギーを対象にして、「生物」や「生活」等に視点を当てている学問で、 振り落としてきたモノを主軸にした ルドルフ・ シュタイナーが言うところの”※精神科学”は、人間の内面/根源的形成に迫り、「生命」や「人生」 等に視点を当てている”学問”です。
シュタイナーの論理は、唯物論に対しての唯心論或いは仏教的な唯識論に近い論理展開をしています。
近い論理ですが、・・・ シュタイナー論理の根源に置くものは、”心的なものや空・ 阿頼耶識” ではない”魂・霊的存在”ですので、異なっているんです。
又、この ”魂・霊的存在” というものが、俗に言われているアニミズムやシャーマニズム的にとられて誤解や間違った解釈をされがちなのも事実です。

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神秘学者は、自然科学の価値を誤って判断するつもりはなく、かえって自然科学者以上にその価値を認めようとする。 神秘学者は、自然科学にみられる思考方法なしには、どんな科学も基礎づけることができないことを知っている。 しかし、神秘学者は、この厳密さが、自然科学的思考の精神に真に通じることによって獲得されるならば、その厳密さを、魂の力を通して他の諸領域のために保持しておくことができることも知っているのです。 – Rudolf Steiner


ルドルフ・シュタイナーの主張する精神科学=霊科学(Geisteswissenschaft) は、たんなる感覚や感性による経験科学ではなく、シュタイナーの言う ”Geist” は、人間の肉体に宿った「精神」や、 時代や民族が共有する「精神」ばかりでなく、真理としての「精神」に近づくために「霊・魂」にも思考や体験が及び、 その踏み込みにより、人間の内部に存在している健全な”予感”を導き出し、現代人の迷信や勘違いしている霊的・魂的思考を、正しく拡張し働く”魂の活動(思考)”に戻して、 精神・生命・肉体に潜む超感覚的認識力を、現代人の智恵により変化対応(時代に即した)させ、新たな(正しい)認識へと導く手法(修練)の ”科学/学問 ” ではないかと、私は考えています。 
物理主義でも宗教的思考でもない彼独特の思想に基づく学問なのです。
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概略を説明してみましたが、精神科学・人智学/シュタイナー思想 などを詳しく知りたい方は、下記のホームページを参照にしてみて下さい。

”  http://fromnow.180r.com/index.htm  ” ・・・ お役に立てれば幸いです。


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・・・・・・ インド中部/オルチャーにて(立脚点 : 影の長いこと)


《 補足  - ”学び” /  訳の分からないことを書いている私の”立脚点”を 書いておきます。》

私が思うには、
”学び” は、・・・ 考え方によっては”諸刃(両刃)の剣”だと思っています。 
どのような”学び”でも、中庸な心で・俯瞰的に物事見ながら”自問自答”しつつ、冷静に前へ進むことだと考えています。 ・・・ だから私は、すべての学びについて是々非々でとらえています。

思想や宗教・生き方に関する真実・真理とかモノの見方・考え方ですが、
其々の方が、其々の眼や心で見えてくる”景色”!
それが、その方にとっての真実・真理ではないかと思っています。
——- どんな景色であってもです! 
列車に例えるならば、右席(例えば海)からの景色があり、左席側(例えば山)の景色もある。 
どちらの景色が見たいか・好きか! 或いは、どちらの景色を”真実・真理”とするか! だけではないかと思っています 。そして、どちららの景色についても尊重しあえれば、小さなイザコザから宗教紛争・民族紛争等々もなくなるのではないでしょうか。
ま~、どちら側の席に座ろうと、行きつくところ(終着駅)は同じなんですがねぇ!



《  訳の分からない話 の 追記 》

せわしなく、一様化した社会!
建前だけの平等主義、そこに潜む優越意識と差別!
”ハァ~”と溜め息 が出ることはありませんか?

・・・・・・ 訳の分からない存在 ・ 大人は無視するが、子供は話しかける!

古今東西・左右どちらを見ても、自分達の群れを守っていく為には、少しでも自分達と異なる動きをするものを弾き出そうとする、 人間の本能的な働きがあるようで、自分達と異なる考えや動きをするものを「別種/異物(ある意味では魑魅魍魎)」として見る。 
それが現在の国や”社会・集団” そして、集団に飲み込まれた個人なのかもしれません。 
更に、物質的な欲望が次から次えと湧き出る”我々・人間”、それを後押しする社会。  そんな社会のあり方に、”ハァ~”と溜め息をもらす多くの方達が、 「何かがおかしい、これで良いのか」 と、気が付き始めたようです。 
異なる価値観、ものの考え方、ものの見方・見え方や”個人/アイデンティティ”の見つめなおしから確立!等などを足踏みしながらでも、考え始めなくてはならない。 ・・・・・・・ 私には、そう思えるのです!

このような社会では、
” 訳の分からない存在 ” いいですね!

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は world_human_no29.jpg です
・・・・・ そこからなら真実が見えますか?

上の写真は、スイス/ジュネーブとポルトガル/リスボンで撮ったものです。
日本の社会/街中からは、このようなユーモアのある”訳の分からない存在”が消えています。
国家権力による規制が厳しくなり、ユトリというものがなくなり、心を病んだ若者たちは、通り魔や大量殺人の方向にシフトしています。
アモクシンドロームという言葉がありますが、個人的な怒りが社会への復讐となり大量殺人を犯してしまう現象です。 このような現象を起こさないように、生産性のない無意味な行為も認め、そして、ユーモアがあり・至って人間的な若者たちを生み出し・応援していきたいものです。

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時々、”ハァ~”と溜め息 が出ることがあります 。
建前だけの平等主義、そこに潜む優越意識と差別を感じた時 !
国家による ”訳の分からない存在” の排除らしきことを感じた時 !
その先には、
私が生まれる前に蔓延っていた”全体主義思想”からの戦争への突入!
・・・・・ 全体主義思想の復活が待っているのかも知れません。

【 参考 】

歴史社会学者 / 小熊英二 「単一民族神話の起源」より
『日本の集団観においては、まず個人があり、それが集まって集団ができるとはされない。 まず、<集団>があり、そこからの疎外現象として<個人>が析出されるのである。  そのため、集団の本流は常に中心のない<みんな>であり、<個人的意見>は、常に傍流とされる。』 

作家 / 村上龍  「 MEN ARE EXPENDABLE.VOL – 6 」  より
『個人の概念が未発達な国では、個人というのは集団から疎外されることによって際立つ。 たとえば、メディアの文脈などでは、個人が発達するのは、集団から疎外される場合に限られてる。 個人的嗜好も集団の影響下にあることが多い。
これまで何度も書いてきたように、そもそも個人と言う概念が希薄だった。
個人と言う言葉そのものが、集団から疎外され、集団と対立するものとして始めて浮かび上がってくるものなのだ。 それは、きっと異質な他者という存在を、歴史的に意識せずにすんできたということも大きいのだろう。』


※ 今回の ”訳の分からない話” の まとめです。

この社会では、建前はアイデンティティとか個人を大切にとか言われますが、 同じ方向を見て 、同じ考え方をし、同じようなふるまいをしなければ、集団から疎外され・はみでた個人になり、”訳の分からない存在”にされてしまうようです。
・・・ そのなかで、 アイデンティティとか個人/自我を大切にできますか?