縄文遺跡‐井戸尻遺跡



八ヶ岳周辺には縄文時代の遺跡が多くあります。
茅野の尖石遺跡では、国宝の「縄文のビーナス」といわれる土偶が発見されています。 ビーナスというよりは、日本人的な四頭身の愛嬌のある土偶です。
しかし、これはこれで色気があり、魅力的なプロポーションです。

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この富士見高原近くの信濃境にも、日本を代表する縄文時代の”井戸尻遺跡”があり、竪穴住居などが展示されています。
井戸尻考古館には、重要文化財に指定された縄文土器等も展示され、付近は井戸尻史跡公園として一般の人にも公開されています。
また、春の公園内は、睡蓮がきれいに咲き、牧歌的な里山風景を見せてくれます。
※ 2018年に八ヶ岳周辺の縄文遺跡群が日本遺産に指定されています




■  シリーズ :旅の途中! ■ 
色々な景色やモノを見て、色々な考え・色々な人に出会う!


今回は、 ”訳の分からない存在 ”についての”訳の分からない話”です。


・・・・  フィンランドの森の妖精/ パッカネン(PAKKANEN)

私は、”フィンランドの森の妖精/パッカネン(PAKKANEN)” のように”訳の分からない存在”になりたいと思っています。
{(註)”バッカねん”ではありません!  ”パッカネンです。 ・・・ この世では ”バッカねん”も ”パッカネンも同じようなものですが
そして、この世を俯瞰してみたいと思っています。


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・・・・・・ うちの妖精/ポッポネンです


”訳の分からない存在 ”を素晴らしいと思っている人間の”訳の分からない話”

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私には ”訳の分からない存在”的になり、この世を俯瞰している友人が何人かいます。
一番の友は、南米のエクアドルに行って、現地で妻を娶とってしまった。
一度・エクアドルの老人労働者の木彫り人形を持って、妻君と共に日本に帰ってきたが、日本には自分の居場所がないと言い残しエクアドルに戻り、それっきり、居場所が分からなくなった。
・・・  ”存在自体”が分からなくなってしまった。

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日本に居るときには、”訳の分からない”ものに”訳の分からない”抵抗をしていた友人でしたが、他者を傷つけるようなことは一切言わず、自分を傷つけるようなことばかり言っていた。
そんな”訳の分からない存在” でしたが、私には空気のような存在でした。

Ernesto(che) – Guevara

彼は、チョットだけ風貌が似ていた”チェ・ゲバラ”に憧ていたが何をしているのやら?
エクアドルの山岳地帯で ”訳の分からない存在” になり ”訳の分からない話”をしながら生きていることを願っている。

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それから、 森の妖精/パッカネン(PAKKANEN)みたいな友人がいます。
その友人から、 久しぶりにメールと封書が届きました。
メールには、現在、縄文文化と縄文人の生活の研究をしているとのことが書かれていました。

近くの信濃境に「井戸尻遺跡や考古館」があり、この縄文文化の学びの場で、食事や生活、文化、踊りなど多岐にわたり研究しているようです。
封書には、ルドルフ・シュタイナーの研究過程での”こころの拠り所”が書かれていました。

教師だった友人は、昔からシュタイナー教育を研究し、実践しています。
そして、青年のようにロマンがあり 且つ、エネルギッシュに、にじみ絵やシュタイナー勉強会を開催したりしていますので、”訳の分からない存在”の森の妖精/パッカネン(PAKKANEN)みたいになり、”訳の分からない話”の精神科学・人智学/シュタイナー思想(叙述)
について”さわり”だけ記載してみたいと思います。
・・・  ”訳の分からない話”ですので、軽い気持ちでお読みください。

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”精神科学” についての概略説明

Rudolf Steiner 

”自然科学” <・> ”精神科学” ・・・ ☆ Geisteswissenschaft / Anthroposophie ☆ 

デカルトの方法論〈自然科学〉は、文明を驚く勢いで進化させ、物質的な豊かさを人々に与えてきた。 この点については誰もが認めるだろうが、 時代はその進化の過程で振り落としてきたモノに着目し始めています。 
”自然科学”は、人間の外面/表象を取り巻く、物質やエネルギーを対象にして、「生物」や「生活」等に視点を当てている学問で、 振り落としてきたモノを主軸にした ルドルフ・ シュタイナーが言うところの”※精神科学”は、人間の内面/根源的形成に迫り、「生命」や「人生」 等に視点を当てている”学問”です。
シュタイナーの論理は、唯物論に対しての唯心論或いは仏教的な唯識論に近い論理展開をしています。
近い論理ですが、・・・ シュタイナー論理の根源に置くものは、”心的なものや空・ 阿頼耶識” ではない”魂・霊的存在”ですので、異なっているんです。
又、この ”魂・霊的存在” というものが、俗に言われているアニミズムやシャーマニズム的にとられて誤解や間違った解釈をされがちなのも事実です。


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神秘学者は、自然科学の価値を誤って判断するつもりはなく、かえって自然科学者以上にその価値を認めようとする。 神秘学者は、自然科学にみられる思考方法なしには、どんな科学も基礎づけることができないことを知っている。 しかし、神秘学者は、この厳密さが、自然科学的思考の精神に真に通じることによって獲得されるならば、その厳密さを、魂の力を通して他の諸領域のために保持しておくことができることも知っているのです。 – Rudolf Steiner


ルドルフ・シュタイナーの主張する精神科学=霊科学(Geisteswissenschaft) は、たんなる感覚や感性による経験科学ではなく、シュタイナーの言う ”Geist” は、人間の肉体に宿った「精神」や、 時代や民族が共有する「精神」ばかりでなく、真理としての「精神」に近づくために「霊・魂」にも思考や体験が及び、 その踏み込みにより、人間の内部に存在している健全な”予感”を導き出し、現代人の迷信や勘違いしている霊的・魂的思考を、正しく拡張し働く”魂の活動(思考)”に戻して、 精神・生命・肉体に潜む超感覚的認識力を、現代人の智恵により変化対応(時代に即した)させ、新たな(正しい)認識へと導く手法(修練)の ”科学/学問 ” ではないかと、私は考えています。 
物理主義でも宗教的思考でもない彼独特の思想に基づく学問なのです。


・・・ ”訳の分からない話”でしょう?

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”さわり”を説明してみましたが、”訳の分からない話”の”精神科学・人智学/シュタイナー思想” などを詳しく知りたい方は、下記のホームページを参照にしてみて下さい。

”  http://fromnow.180r.com/index.htm  ” 

・・・ お役に立てれば幸いです。




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・・・・・・ インド中部/オルチャーにて(学びの立脚点 : 影の長いこと)


《  訳の分からない話 の ”学び方” 》

私が思うには、
”学び” は、・・・ 考え方によっては”諸刃(両刃)の剣”だと思っています。 
どのような”学び”でも、中庸な心で・俯瞰的に物事見ながら”自問自答”しつつ、冷静に前へ進むことだと考えています。 ・・・ だから私は、すべての学びについて是々非々でとらえています。

思想や宗教・生き方に関する真実・真理とかモノの見方・考え方ですが、
其々の方が、其々の眼や心で見えてくる”景色”!
それが、その方にとっての真実・真理ではないかと思っています。
——- どんな景色であってもです! 
列車に例えるならば、右席(例えば海)からの景色があり、左席側(例えば山)の景色もある。 
どちらの景色が見たいか・好きか! 或いは、どちらの景色を”真実・真理”とするか! だけではないかと思っています 。そして、どちららの景色についても尊重しあえれば、小さなイザコザから宗教紛争・民族紛争等々もなくなるのではないでしょうか。
ま~、どちら側の席に座ろうと、行きつくところ(終着駅)は同じなんですがねぇ!




《  訳の分からない話 の 追記 》

せわしなく、一様化した社会!
建前だけの平等主義、そこに潜む優越意識と差別!
”ハァ~”と溜め息 が出ることはありませんか?

・・・・・・ 訳の分からない存在  ”バカねん”  ・ 大人は無視するが、子供は話しかける


古今東西・左右どちらを見ても、自分達の群れを守っていく為には、少しでも自分達と異なる動きをするものを弾き出そうとする、 人間の本能的な働きがあるようで、自分達と異なる考えや動きをするものを「別種/異物(ある意味では魑魅魍魎)」として見る。 
それが現在の国や”社会・集団” そして、集団に飲み込まれた個人なのかもしれません。 
更に、物質的な欲望が次から次えと湧き出る”我々・人間”、それを後押しする社会。  そんな社会のあり方に、”ハァ~”と溜め息をもらす多くの方達が、 「何かがおかしい、これで良いのか」 と、気が付き始めたようです。 
異なる価値観、ものの考え方、ものの見方・見え方や”個人/アイデンティティ”の見つめなおしから確立!等などを足踏みしながらでも、考え始めなくてはならない。 ・・・・・・・ 私には、そう思えるのです!


このような社会では、
” 訳の分からない存在 ” いいですね!

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・・・・・ そこからなら真実が見えますか?  いいね~、 ”バッカねん”登場!


上の写真は、スイス/ジュネーブとポルトガル/リスボンで撮ったものです。
日本の社会/街中からは、このようなユーモアのある”訳の分からない存在”が消えています。
国家権力による規制が厳しくなり、ユトリというものがなくなり、心を病んだ若者たちは、通り魔や大量殺人の方向にシフトしています。
アモクシンドロームという言葉がありますが、個人的な怒りが社会への復讐となり大量殺人を犯してしまう現象です。 このような現象を起こさないように、生産性のない無意味な行為も認め、そして、ユーモアがあり・至って人間的な若者たちを生み出し・応援していきたいものです。


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時々、”ハァ~”と溜め息 が出ることがあります 。
建前だけの平等主義、そこに潜む優越意識と差別を感じた時 !
国家による ”訳の分からない存在” の排除らしきことを感じた時 !
その先には、
私が生まれる前に蔓延っていた”全体主義思想”からの戦争への突入!
・・・・・ 全体主義思想の復活が待っているのかも知れません。


【 参考 】

歴史社会学者 / 小熊英二 「単一民族神話の起源」より
『日本の集団観においては、まず個人があり、それが集まって集団ができるとはされない。 まず、<集団>があり、そこからの疎外現象として<個人>が析出されるのである。  そのため、集団の本流は常に中心のない<みんな>であり、<個人的意見>は、常に傍流とされる。』 

作家 / 村上龍  「 MEN ARE EXPENDABLE.VOL – 6 」  より
『個人の概念が未発達な国では、個人というのは集団から疎外されることによって際立つ。 たとえば、メディアの文脈などでは、個人が発達するのは、集団から疎外される場合に限られてる。 個人的嗜好も集団の影響下にあることが多い。
これまで何度も書いてきたように、そもそも個人と言う概念が希薄だった。
個人と言う言葉そのものが、集団から疎外され、集団と対立するものとして始めて浮かび上がってくるものなのだ。 それは、きっと異質な他者という存在を、歴史的に意識せずにすんできたということも大きいのだろう。』


※ 今回の ”訳の分からない話” の まとめです。

社会や種々の教育機関では、自立・アイデンティティとか個人を大切にとか言われますが、 同じ方向を見て 、同じ考え方をし、同じようなふるまいをしなければ、集団から疎外され・はみでた個人になり、”訳の分からない存在”にされてしまうようです。
更に、枕詞に”自由”をつけ”自由・自由”と姦しいが、一つの岸辺から見て、見てはいけないものとか、聞いてはいけないものを特定する。或いは、使ってはいけないものまでも特定する。
これは、”自由”とはかけ離れた規制/束縛やはめ込み型/檻の中での言葉遊びでしかない。
・・・ と、思っています。
自由の立脚点である善悪やモノの良し悪しなどは時代や国により異なります。
そして、自由には間違いがつきものです。
間違わないように歩んだつもりでも、どんなことをしても間違いは起こります。
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『 だから、間違わないように規制している。』
・・・  それは人間の驕りで、”自由”と連動しているのでしょうか?
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《 規制/束縛やはめ込み型/檻の中での言葉遊び  》
昔・”ソ連や東ドイツ・チェコ・ポーランドなどの共産圏の国々を見てしまっただけに、一言付け加えさせてもらいます。
《 人生 》
分からないことだらけ! 間違いだらけ、迷ってばかり!・・・ それが人生だと思います。
《 教育 》
確実なことは、『 人を傷つけないこと ( これも人類の生存の観点からの正義かも知れませんが。 ) 』 以外は、何が正義で何が自由か等々分からないことだらけ!
ですから、教える側が、 自立・個性/自我や自由とは? 等をもう一度考えることから始めたらどうでしょうか。
・・・ 先達も喜ぶと思うのですが。




・・・ 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか – Gauguin

【 参考 】

” Friedrich Wilhelm Nietzsche ” 
何が善であり何が悪であるのか、人間としての倫理とはどういうものなのか、という定義は、その時代によって正反対になるほど異なっている。
古代にあっては、伝統のしきたりや慣習から外れた自由なふるまいをすることを非行とみなされた。 また、個人として行動すること、身分を越えた平等、予測がつかないこと、慣れていないこと、見通しの立たないことまでもが悪であった。 古代人から見れば、現代ではまったく普通とされている行動や考えの多くが悪なのだ。


” Carl Gustav Jung ”
疑いもなく、つねに人間の中に棲んでいる悪は、量りしれない巨魁なのだ。

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” 芥川龍之介 ”
 人生は、地獄よりも地獄的である

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“ Thaddeus Golas ”
地獄さえも愛することができるようになれば、あなたはもう、天国に住んでいるのです。