2019年7月11日
雨空が続きますが、昨日(7月10日)は、久しぶりに晴れ間が出て星たちも見えホットしました。
九州や四国では大雨による被害が続出しています。
雨も必要なのですが、人間社会を困らせないように、塩梅を考えて降ってもらいたいものです。


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私事ですが、昨日 (7月10日) は、4月17日に記載した甲斐大泉のシュタイナー書籍翻訳家であり研究者の友人夫婦と 年に一度の恒例の我が家でのお泊り”馬鹿話会”がありました。
ブッダの”言”ではないが、”人生は苦なり”です。しかし、最後は、”人生はなんと甘美なことか(ブッダ)”などとカッコいいことを言ってこの世を去りたいと思い、この”馬鹿話会”や下記の”瞑想”を続けています。
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” 八ヶ岳でRudolf Steiner’s Meditation ”
この項もあまり難しく考えないで、自分に合わなかったら笑い飛ばしてください。
・・・ 眉間にしわを寄せるように、真剣に読むものではありません。
禅でいえば”野狐禅”のようなものです。ですから、自己流の瞑想法を模索してください。
その模索の中の一つとして、” Rudolf Steiner’s Meditation ” を記載してみました。




■  シリーズ :旅の途中! ■ 
色々な景色やモノを見て、色々な考え・色々な人に出会う!

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瞑想 ・・・ Meditation


”ぐーたら人間”の瞑想 / 前回(ヨガの瞑想)の続きになります。
今回は、ルドルフ・シュタイナーの瞑想/Meditationです。
少し専門的な表現になりますので、シュタイナー思想/思考を学んでいない方には、違和感を感じると思いますが、誤解を恐れずにそのまま記載いたします。


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『 Rudolf Steiner 講演録 / 1914年10月3日・講演第一講(Dornach): Meditation 』

シュタイナーが述べている瞑想 / Meditation !
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覚醒意識における私達が「皮膚/体」の中に収まっていると信じるのはひどい錯覚で、本当は、自分の見ている事物の中に存在しているとシュタイナーは述べています。

≪ 瞑想/Meditationの必要性 ≫

Rudolf Steiner ・・・ 
『 ある人に向き合う時、私の自我とアストラル体は、その相手の人の中に存在しています。 私が自分の身体をその人に向けなければ、その人を見ることは出来ません。 その人が見えるのは、体のおかげですが、私の自我とアストラル体は、その人の中に存在しています。 このことが分からないのは、大きな錯覚(マーヤー)なのです。以上、物質界での知覚と体験とについて、概念的に説明してみました。 霊界においてはどうでしょうか。 私は、霊界が、物質界の事物や経過に較べて、きわめて流動的であり、変化が激しい、と申しました。 私達は物質界の粗野な事物におけるように、霊界においてもその霊的事象の中に収まって存在していますが、その流動的で精妙な事象を、それが余りに精妙であるために、意識して体験する事が出来ません。 ですから初めは、私達の個性の担い手である通常の自我による瞑想を通してそれを行うのです。 』

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・・・ ゲーテアヌムからドルナッハの夕景を望む


≪ では、瞑想 /Meditation はどのようになされるのでしょうか。 ≫

Rudolf Steiner ・・・ 
『 まず、何らかのイメージを取り上げ、そして自分を完全にこのイメージに委ねるのです。
その場合、自我は自分自身を忘れます。
つまり通常の昼の意識の自我を抑制します。
自己中心的な昼の意識全てを排除するのです。


・・・ 瞑想する インド:リシュケッシュのサドゥー


私達は、物質界の為に自己中心的な態度をとることに慣れていますから、まず自我そのものを抑制するのです。
そうすれば、肉体、エーテル体で生きる代わりに、もっぱらアストラル体だけで生きることが、次第に出来るようになります。
どうぞこのことに注意して下さい。
私達が瞑想に意識を集中するとき、第一に、自己中心的に生きないことを目標にします。
物質界では、そういうわけにいきませんから、まず、アストラル体で自己中心的な態度を抑えようと努めます。
しかし、アストラル体の体験は、初めは肉体に反映されませんから、意識化されていません。
花束を見る人は、実際に花束の中に収まっていますが、体が花束を映し出すときには、その花束を外にあるものとして見ます。

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・・・ どうですか?

自我の自己中心的な態度を抑えるときの皆さんのアストラル体は非常に精妙になっていますので、外界の精妙で流動的な事物が知覚できるはずなのですが、
意識して知覚しようとするときには、まずその事物を意識に映し出さなければなりません。
ここに、皆さんによく注意して頂かなくてはならないことがあります。
皆さんの中の多くの方は忠実に、真剣に、瞑想に打ち込んでいらっしゃいますから、通常の自己中心的な態度を抑えて、アストラル体の体験が生じるところまで来ています。
しかし、アストラル体の体験を意識化するためには、まず反映が生じなければならないのです。
皆さんの中のかなり大勢の方は、瞑想によって、アストラル体で生じるところまで来ていますが、大切なのは、反映することなのです。
通常の体験内容が身体によって反映されているように、霊界を意識的に知覚しようとするなら、まずアストラル体の体験をエーテル体によって反映させることが必要です。



では、エーテル体によってアストラル体の体験が映し出されるとき、何が生じるのでしょうか?
その時に生じるものは、物質界の知覚内容とは全く違います。
物質界では切り取られた花束でさえ、完結しており、同一の姿を留めています。
花束を見て楽しみ、それを家に持ち帰り、花瓶に入れたとしても、花束は花束のままです。
しかし、アストラル体験がエーテル体によって映し出される場合は、全く違っていて、全てが生きており、どんなものも、一瞬たりとも静止していません。
けれども大切なのは、そこに直接映し出されて現れてくるものではないのです。
その場合に大切なのは、それが何かということです。
私がエーテル体によって何かを映し出したときは、花束を見るときのように、それをみて楽しむのではないのです。
皆さん、どうぞ、私の言う事を理解しょうとしてみて下さい。
これについては、これまで何度も同じ比喩を用いてきました。

ここにこう書きました。
いくつもの線が引かれています。Bとaとuですね。
けれども、この記号を私が読めなければ「線がこんなふうになっている。 独特の形になっている。」と言うだけです。
私はそこに記されているいるものを、花束のように家に持って帰って、花瓶に入れたりはしません。
そにある「Bau」(建物)を取り上げて、ポケットに入れて家に持って帰る、というようなことが問題なのではありません。
大切なのは外の建物です。そしてその建物の事を「Bau」という記号で表現しているのです。
大切なのは花瓶に挿入する事ではなく、その記号を「読む」ことなのです。』


その他 ”バラ十字”の瞑想法があります。

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『 Meditation – 修練の進行 』 - Rudolf Steiner


二つの魂的な体験が重要である。
その一つの体験は、人が次のように言う事が出来るものである。
物質的な外界が印象として私に与えることのできるすべてのものを無視するようになったとき、
私は、私の内面にあらゆる活動が消え去っている本性を見るのではなく、感覚的な通常の悟性による印象からのみ刺激を得ている間は、
まったく知る事のできない世界の中で、自分自身を意識しているある世界を見るのである、と。
魂は、こうした時に、今述べたような魂の本質の核としての新しい存在を、自分自身の内部に生み出したのだ、と感じる。
そして、その存在は、それまでの魂の内部にあったものとはまったく異なる特性を持つ存在なのである。
もう一つの体験は、それまでの自分という存在が自分と並ぶ分身であるかのようになるという体験である。
それまで閉じ込められていたはずの自分が、ある点では、自分と向き合っていると思われるようになる。
いつもは自分自身の本質、自分の「自我」と見なしていたものの外に、時々自分を感じるのである。
一方の自我は、それまでに知られていたものである。
他方の自我は新たに生まれた存在として、第一の自我の上位にある。
そして、第一の自我は、第二の自我に対して一定の独立性を獲得しているように感じられる。

以上

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前回の『 ”ぐーたら人間”のヨガでの瞑想 』に引き続き、今回はルドルフ・シュタイナーが述べているMeditationを取り上げてみましたが、参考になりましたでしょうか?
ヨガの瞑想とは異なるので、同時に記載するのは私の中で抵抗がありましたが、これも瞑想には変わりがないと思いなおして書いてみましたが、ルドルフ・シュタイナーの叙述は、全くもって理解しにくい!
参考までに!  この項は、講演録でもあるので比較的分かりやすい表現になっていますが、シュタイナー書籍に至っては難解の一語に尽きます。
シュタイナー関連書籍については、” 
http://fromnow.180r.com/steiner3.htm  ” を参考に探してみて下さい。・・・ お役に立てれば幸いです。