シュタイナー特集
☆ 4 ☆
” 精神科学概論 ”


我々人類は、
どこから来て、どこへ行くのか



【  目次 】

● 精神科学/追求と判断
— 最終稿 —
● 死後・輪廻
● 死・再生・カルマ・輪廻
● 眠り
● アストラル体・エーテル体
● 自我
● ”死と死後”
● 自我について
★ シュタイナー叙述に似ている
  自然科学者/医学者の話


八ヶ岳の紅葉



精神科学/追求と判断

Rudolf Steiner


精神科学は、霊的器官によって高められた知覚から、その諸事実を汲みとる認識を通してその関連を追及する。

また、精神科学は、人間の生成過程をさかのぼって追及する。

そこで、人間の本来の内的で霊的な存在が、この地球上での一連の”生”を通じて歩んできた事実が明らかになります。

・・・ Rudolf Steiner

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

“私”の内部には、現在”私”が持っている判断能力よりも正しく”私”を導いてくれる何かが存在しているのです。

ですから、”私”はこの「”私”の内部の何か」に対して、”私”の感覚を開いておくことが必要なのです。

現在、そこまでは”私”の判断能力はまだ成就していないのだ、と ・・・
しかし、魂が人生のそのような場合に注意を向けていれば、その何かは、魂にとっても有効に働きかけます。

その時々の人間の判断力で見通せる以上のものが、人間の内部には存在しているのだという事が、健全な予感のように、魂にあきらかとなるのです。

このような注意深さは、魂の活動が拡張するように働きかけます。

この場合にも容易ならぬ一面性が生じる可能性があります。 
“予感”が自分をあれこれの事柄に駆り立てるので、常に自分の判断を排除する習慣をつけようとする者は、あらゆる不確かな衝動に翻弄されるでしょう。

そして、そのように習慣となった判断しない状態と迷信との間には、大きな違いは無いのです。

・・・ Rudolf Steiner



☆ 最終稿 1 ☆

上記とは、少し意味合いが異なりますが、体験からの思い。

私は、無宗教者のうえ鈍感で、全く霊的感性がない人間なんです。
————————————————–
そんな私ですが、面白い体験をしました。
————————————————–
あの出来事から時が経ち、今・思い出すと私の妄想だったのか 或いは、自分自身への酔いしれた作り話だったのかが分からなくなっています。

☆ ☆ ☆

2012年の春、習慣的になっていた「薔薇十字」の瞑想・修練を、早朝/夜と気楽な気持ちで行っていました。

ある朝何か違和感を感じ、その後2週間くらいして、自分自身の”原点”的なモノ(もう一人の自分!?)が出現し、次にそのモノが瞑想している自身を、操作(目覚めさせ)し始め、その後は実生活でも現れるようになりました。

いわゆる、ドッペルゲンガー現象 (独: Doppelganger・英: double /上記参照 )のような事が起こったのです。

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この現象の一つの考え方(心理学)としては、フロイトの「精神構造論」によると超自我があたかも独自の存在として見える現象らしいのです。

・・・ 心理学的には、一種の幻聴・幻覚現象になります。

その超自我の分離独立が不完全な状態では”もう一人の自分”がいると、自己の一部が外部に存在するかのように投影され体感します。

その分化がさらに進むと、分離した超自我は、自己と切り離された神的な存在として感じるようになるらしいのです。

———————————————

本題に戻りますと、私の体験は、その後にある意味では辛いことや危ないことへと進みました。

”起きたことや現象”は、こと細かく記録に残し、検証も試みていますが、それが ”瞑想や修練の結果”なのか、”私の思い過ごし”或いは”一種の幻聴・幻覚現象”なのかは、今でも結論は出していません。

あったようでもあり、なかったようでもある。
・・・ これが事実です。



※ あったようでもあり・なかったようでもある話!

以前に似たような経験をしていますので、2度目の体験になります。
それは、・・・
50代に彷徨い続けたインドで、サドゥに混じり・かなり厳しいヨガ瞑想をしたり、曼荼羅を心の中に描く修練をしている時に似たような体験をしています。


天の川銀河


☆ 最終稿 2 ☆

デカルト以降の自然科学では宗教に任せた課題
答えがでない課題


死後の世界、そして輪廻

インド/バラナシ:ガンジス河
マニカルニカガート(火葬場)


生物である以上、死は確実にあることだが、その先の死後や輪廻は?

☆ ☆ ☆

インドを旅し・死後の世界も輪廻も信じているインド人と接し、死を通過点とする彼らの生活を見ていると、そんな世界があっても良い・いや、そんな世界があって欲しいとの願望が強くなります。

しかし、現代科学にどっぷりと浸かっている私の正直な心境は、死後は”無”に戻るのみで、”輪廻”もあり得ないと思うのですが、・・・

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

古今東西の多くの文人や哲学者・思想家などが、人生は苦しみだと述べています。
極めつけは、ブッダ(お釈迦様)の「人生は苦なり」という言葉です。

しかし、
世間では、人生を苦と捉えることに対して、

道徳的・偽善的な言葉で、「あなたの命は地球よりも重い、だから命は大切に」などが言われ、人生を楽園のように考えることや謳う思考が席捲しています。

たしかに、人生は苦だけではなく、たまには楽しさや喜びもある。

人生! そんなものだと思うが、
楽園だと思い込まされている方々は、それだけでは人生の苦を乗り越えられないで悶々としている。

悶々とするのはいいが、
苦しいからと言って、自死の選択などはもっての外です。

しかし、この苦から逃れた先に何があるのか? と、考えることぐらいは許されるのではないでしょうか。

そこで、未知の世界 > 宗教の分野なるがゆえに、科学的な答えは見つけられないと思っていますが、・・・ 心の問題として、シュタイナーの叙述を基に考えてみました。

ルドルフ シュタイナー : シュタイナー思想☆自然科学と精神科学/コルカタ マザーハウスにて
コルカタ
マザーハウスにて


死後の世界観!

☆ アメリカの医師で医学者
  レイモンド・ムーディ氏
  キューブラ・ロス氏
☆ 東京大学大学院医学系研究科教授
  矢作直樹氏
☆ フインランドの女性医師
  リーナルネカン・キルデ氏

などの書籍を読むと”死”の向こうにも違う世界があるような気にもなってきます。

☆ ☆ ☆

シュタイナーは、どのように考えているのでしょうか。



Rudolf Steiner

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シュタイナー


” 死後 ”

死後すぐ後に来る諸体験は、ひとつの点で生きている間の諸体験とは、全く異なるものです。浄化の間・人間はいわば逆戻りする事になります。

人間は誕生して以来、生きているときに体験した全ての事柄をもう一度体験します。 死の直ぐ前の出来事から始まり、誕生までの全てがもう一度逆に体験されます。

そして、その際、生前に自我の霊的本性に由来しないすべての出来事が、霊的に眼前に現れます。ただ、人間は、この全ての出来事も逆の仕方で体験します。

例えばある人が、60歳で死に40歳の時に激しい怒りから誰かに肉体的あるいは精神的に苦痛を与えたとすると、その人は死後、生前の生涯を逆に戻って、40歳のところへ達した時、この出来事をもう一度体験することになります。

ただ、その時は、生前、他者を攻撃する事で生じた充足を体験するのではなく、その代わりに、自分が他者に与えた苦痛を体験するのです。

この浄化の時は、生きてきた間の約1/3を要します。

・・・ Rudolf Steiner

インド/ダラムサラ(ダライラマの亡命地)
輪廻:砂曼荼羅を描くチベット僧


” 輪廻 ”

人間が物質界の人生で獲得した果実が、霊の国で成就すると、その度に 繰り返し人間は地球上に戻ってくる。 しかし、初めと終わりのない繰り返しは存在しません。

人間は、かって、別の存在形式から、既に述べたあり方で経過する存在形式に移ったのであり、未来においては別の存在形式に移行します。

どの人間も、自分の霊的な基本形態に従って、生まれる前に存在しています。 これは、霊的に考察すればわかります、どんな個人も他の個人とは同じではないからなのです。

それは、ちょうど動物の種が、他の動物の種と同じではないのと同様です。

略 ・・・・・・・ 霊的探求が述べている、地上生活と地上生活との間の霊的領域の諸事実と関連している繰り返される地上生活(輪廻転生)のみが、このことが、現在の人間の生をあらゆる方面から考察した時に、満足のいく説明をする事が出来るのです。

・・・ Rudolf Steiner

≪ 死・再生・カルマ・輪廻 ≫

人間は、いつまでも自我・アストラル体・エーテル体・物質体の四重の存在でいるわけではありません。
いずれ物質体の崩壊による死が訪れます。

すると人間は,自我・アストラル体・エーテル体の三重の構成となって、物質界から抜け出ます。 この死後の世界で「自我」が意識を維持しながら数日を過した後、エーテル体の分離が起こります。
そして、自我とアストラル体という二重の構成になった人間は、アストラル界に出て、そこで地上の人生のおよそ1/3に相当する期間を過ごすことになります。

その後、アストラル体の分離が起こり、人間は感情にわずらわされない純粋な霊(Geist)となって、「高次の霊的世界」で過ごすことになる。これはふつう数百年かかります。

その数百年のある時期に、「次の生」をどのような体で、「どのような環境」のもとで過ごすのが「霊的進化のために」最も良いかが決まる時がある。

所謂、 「カルマの現れ(Die Offenbarungen des Karma)」です。

そして時が満ち、再び物質界へ向けての下降が始まります。
途中アストラル界でアストラル体を、エーテル界でエーテル体を、新たに身につけ、その後母胎に宿って物質体を得た後に、前の人生を消去した新しい人生が始まるのです。 

・・・ Rudolf Steiner


 眠り ”

人間が眠りに落ちると、人間の構成部分の関係に変化が生じます。
眠っている人間の中で、その場所に横になって居るのは、物質体とエーテル体であって、アストラル体と自我は含まれません。

眠っている時にエーテル体は物質体と結合した状態であるので、生命の働きは継続します。
なぜなら、物質体はそれだけで放っておかれるならば、その瞬間に崩壊する事になるからです。

しかし、眠っている間に消えているものは、さまざまな表象であり、苦悩と快楽や喜びと悲しみであり、意識的な意志を言い表す能力であり、生活に見られる似たような諸事実であります。

だが、それらについては、アストラル体が担い手です。

眠りの間に、アストラル体があらゆる快楽と苦悩、全ての表象世界や意志の世界と共に消滅していると言う考えは、とらわれのない判断にとっては、言うまでもなく、全く問題になりません。

アストラル体は、まさに別の状態で存在しているのです。

人間の自我とアストラル体は、快楽や苦悩そして先に述べたあらゆる他のものに満たされているだけではなく、それらについての意識的な知覚も持っているが、そのことが意識されるたみめには、アストラル体が、物質体、エーテル体と結びつく事が不可欠なのです。

目覚めている間はアストラル体は、物質体とエーテル体と結びついているが、眠りの間はそうではありません。アストラル体が物質体、エーテル体と結びついているときとは異なる存在のあり方をしているのです。

ここで、アストラル体のこの異なる存在のあり方を考察する事が、超感覚的なものへの認識の課題となります。

・・・ Rudolf Steiner




 参考 】

アストラル体とは?
 
シュタイナーは、人間の内部では、親密にアストラル体は”知覚に持続性を与えている魂の部分”と結びつき、それを総合してアストラル体と呼び、厳密に言うならば人間のアストラル体を魂体と呼べると述べ、魂が魂体と一つになっている限り、魂を感覚魂ということもできる。と述べているが、分かり辛いので一般的な解釈で説明致します。

ジャーナリストの「立花隆」氏が「超常現象・臨死体験」等の調査研究過程で書いた書物にあった言葉です。

『 アストラル体というのは、オカルトの世界では昔からある概念で、時代によって人によって、その使い方が違うので、簡単には定義できないが、一口で言うと、人間の構成要素として魂と肉体の間にある中間体的なものである。

非物質的な生命の担い手で、通常は肉体の内部に宿って、肉体と同じような形をしているが、形は固定しておらず、フレキシブルである。

そして時とすると、肉体の外部に出てくる。 特別の能力を持った人は、これを自分の意志の力で外部に出すことが出来るという。

また病気や疲労などで肉体が消耗しているときには、自然にそれが外に流れ出してしまうこともある。

しかし、外に出ても、生きている限りは、アストラル体は、元の肉体に戻ることが出来る。 アストラル体には、感覚能力・知覚能力・記憶能力なども備わっているので、肉体を離れた状態での体験を思い出すことが出来る。

また、アストラル体が離れても、肉体の通常の能力は必ずしも失われないので、肉体は肉体でそのまま日常的な活動を継続することも可能であると言われる。』

一つの解釈・説明として参考にして下さい。

エーテル体とは?

シュタイナーが言う「エーテル体」は、物理学的なエーテル/「光の担い手」ではなく、物質体の至るところに浸透している人間の本質の第二の構成部分を意味します。言うなれば、物質体の一種の「建築家」のように見なす事が出来るとも述べています。

シュタイナーの目には、物質と生命の間に、数字で規定できる違いだけでなく、決定的な相違が映っていたようです。

又、シュタイナーは、生命にはその担い手として肉眼には捉えられないエ一テル体(der Aetherleib)が宿っていると考えます。

そのエーテル体が抜け出れば、その生命体は死にます。

そして、シュタイナーは、このエ一テル体を提供する源の世界として、物質界より高次なエ一テル界(die aetherische Welt)を考えていました。 これが生命力の世界です。

人間の場合、エ一テル体は物質体(der physische Leib)に生命を与えているだけでなく形も与え、記憶力やリズム性・習慣性なども担っているとされます。

エ一テル体は超感覚的な観察によると、輪郭は物質体とほぼ同じであるが、内部はリズムをもって流れる流動体と考えています。

芸術的感動や宗教的畏敬の念は、このエ一テル体に良い影響を及ぼすといいます。
シュタイナーは、体とその源であるエ一テル界を構成している素材は、我々が何かを想像する時に浮ぶイメージに、生命を吹き込んだようなものとも考えました。

それが前述の ”物質体の一種の「建築家」のように見なす事が出来る” という事に繋がります。


それでは、「自我」とは何ぞや? ・・・・ 

自然科学、哲学、精神科学、シュタイナーの叙述等々其々の分野で一冊の本になる位に深く興味のあることですので、楽しみながら自分なりの「自我論」を探り出して下さい。

参考までに、フロイトの「精神構造論」では、自我は三層構造になっているとし、下部の自我~超自我と呼ばれる上部の自我に分類し、快楽原則を原理とし自己を本能的行動に走らせる自我から理性や理想・倫理観のもとに導こうとする超自我と段階的に分け、一体としています。

尚、ルドルフ・シュタイナーが述べている「自我」については、高次の自我と低次の自我がありますが、この自我論については自らが熟読し・解釈することしかないと考えます。

”自我” ・・・ 
この物質社会では、それこそ何人にも定着した自我があり、解釈や理解の仕方が異なります。
ですから、同じ文章でも、それぞれが全く違う解釈・理解の仕方をしてしまいますので、他者の解釈によるものを見る・読むのではなく、自らが無心無垢になり考えることが大事です。

「神秘学概論」の第二章「人間の本質」・第三章「眠りと死」等で述べていますので、そちらを参照下さい。
 
”自我” ・・・
人間の永遠の探求テーマかもしれません。
一つの自我論を参考に下記に記載いたします。

八ヶ岳の紅葉



「自我」

”怒り”から導く方法で、「自我」を 「 デカルト的 」 に考察してみました。

医学的には、理性は脳の表面を被っている大脳新皮質の働きによるが、本能や欲望、怒りや恐怖等の情動は、大脳新皮質の下にある大脳辺縁系の働きであり、人間は、理性と情動を連動させることが出来る珍しい動物であるらしい。

この脳の前部・前頭葉(前頭連合野)が巨大化し「自我」という機能を有するようになり自己同一性が保持された。

その結果「死」の恐怖も生まれ、それらの恐怖から免れる方法として『 体が滅んでも、精神(魂)は不滅である 』という考え方が生まれ、宗教などの根本思想となった。

そして、人間が発明した極めて優秀な「心の安定装置」でもあると考えるようにもなる。

この「心の安定装置」/ 宗教での「怒り」の捉え方は、正常な判断力を弱め、自我の弱体にも繋がるので、人間の低次な感情表現と考え、キリスト教では、七つの大罪の一つとしています。

仏教でも、怒りを克服しない人間は「地獄界の精神状態へ導く」と考え、死後最も悪い状態に魂が行く事になるとしています。

生物学的には、「不安」・「いらいら」・「怒り」は、生理的な現象も含めて「 本能的欲求やテリトリーへの侵入に対して、思うがままにならないこと / ストレスや威嚇 」の表現で、 人間の場合には、心と身体の「安定とバランス」が崩れた時の「悲鳴」のようにも感じてしまいます。

補足

”怒りや死の恐怖”を取り除けたら、どんなに素晴らしいことかと思っていましたが!

1940~50年代に、脳の前部に有るとされる怒りや恐怖、精神分裂・躁鬱病等の原因を脳全体から分離させ、消去する研究が行われている。

この研究(ロボトミー研究)で、ポルトガル人医師/エガス・モニスは、ノーベル賞まで取っているが、ロボトミー施術で不安や凶暴性、怒りや恐怖(死の恐怖)、喜びや悲しみ等の情動は希薄になるが、人間としての自我(精神)の喪失が問題しされ、 今でもこの分野の研究は、大きなうねりにはなってはいない。

以前に本で読みましたが、アメリカだかカナダの建設作業員が、事故で頭の前部(前頭連合野)に鉄筋を突き刺し、一命は取りとめたが、理性の利かない全く別の人格(”私が私”で無くなってしまう。)になってしまったという話があります。

このことで解かることは、”怒りや恐怖”等の情動は「自我(私は私!)」と連動しているということになり、取り除くと”私”ではなくなってしまうということにもなりますので、「心の安定装置」などの力を借りて共存するしかないみたいです。

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又、角度は異なりますが、精神医学者の河合隼雄氏が自我の確立について、下記のように述べています。

自我の確立を西洋流に考える事は、「男性の目」によるものである。「女性の目」を通して見るという場合、自我の在り方からして異なってくるはずである。

そして、この事は必然的に東洋と西洋の対比の問題にまで及んでくるのである。 ノイマンの提出した、西洋近代の自我は—-男女を問わず—-男性の英雄像で表される。

という説に対して、筆者は、日本人の自我は—-男女を問わず—-女性像で表されるのではないかという仮説を既に提出した。

・・・ 河合隼雄


八ヶ岳の冬の景色


《 個人的資料室 》

死と死後

自然科学者/医師・医学者の話



東京大学大学院医学系研究科
医学部救急医学分野教授
矢作直樹医師の話
・・・ 講談社/現代から

私が勤務する東大病院では、年間3000人もの患者が集中治療室で治療を受けています。
そこは生と死が隣り合わせの場所であり、私も臨床医として、日常的に多くの「死」に立ち会ってきました。

霊感が強い人は、死ぬ直前の人間の体から何かが抜け出していく、言い換えれば「見えない体」が肉体から出ていくのが分かるといいます。

患者の臨終に何度も立ち会った私も、それは分かるような気がします。

これは過去に多くの患者を看取ってきた私の偽らざる実感なのです。
言葉ではなかなか説明しにくいのですが、いわば肉体から何かが「外れかけている」感覚があるのです。

現役の医師である私が言うのもおかしいかもしれませんが、人間には霊魂がある、と言うと理解できない人がいることは百も承知です。

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アメリカ医学者
レイモンド・ムーディ著
『一度死んで生還した人々の臨死体験リポート』から


レイモンド・ムーディ医学博士は、「 担当医が死の断定を下した後に蘇生した人や事故などによって一度死んで生還した人など150例 」 についての体験談を集めリポートを作成しているが、それらには共通点があるという。

■ 自分の物理的な肉体を抜け出て、ある距離を保った場所から、傍観者のように自分自身の物理的な肉体を見つめている。

■ 自分にも「身体」が備わっているが、この身体は物理的な肉体とは本質的に異質なもので、特異な能力を持っていることが分かる。そして、生涯の主な出来事を連続的に、しかも一瞬のうちに再生して見せる事で、総括の手助けをしてくれる。

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フインランドの女性医師
ルネカン・キルデ医師・医学博士 著
『クオロ・ミヨラ( 死は存在しない!)』 から


死と考えられているものの実体は何であるかといえば、この三次元の世界で我々が着用している肉体という衣を脱ぎ捨て、別の次元に入っていくことなのです。 

三次元から別の次元へ存在のシステムを移しても、肉体を離れたあなた自身の本質的存在には変化はありません。

別の次元においてあなたは存在しつづけ、考えつづけ、感じつづけられるのです。



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シュタイナー思想精神科学概論

END

八ヶ岳の新緑


《 別添資料 》

ゲーテアヌムなどのシュタイナー建築や宇宙・地球・生命/自然科学とシュタイナーの宇宙進化論・瞑想法、シュタイナーの年譜・年表を纏めたものとシュタイナー書籍案内がありますので、ご覧になりたい方は下の文字をクリック(タップ)して下さい。

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