”八ヶ岳思考”

宇宙 ≫ 生命・人間・人生


変人の独り言シリーズ
” 自然科学と精神科学の融合 ”


自然科学と精神科学
《 その1 》



未知なる世界/神秘の世界
宇宙 ≫ 生命・人間・人生

全てになんらかの原因があり、現象が起こっています。
それが「神」なのか、「必然や偶然」なのか?
或いは、何も起こっていないのかもしれません。

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空間も時間もない”無”から生まれたという宇宙。

”無”とは何なのでしょうか?
永遠なる広がりもなく、点でもなく、時の流れもない。

・・・ 物質的思考では解らない!

大きさや時間と言う物質的概念を超越したところから生まれた宇宙!
そこに誕生し、その宇宙の事を考える生命!

しかし、生まれた場所である宇宙の構成物質の殆どが解らないという。なぜ、生まれたのか(ビックバンが起こったのか)も解らないという。

人間に例えれば、何かを考えているが、考えている自分が解らないということになります。

デカルトなら「われ思う故にわれあり」となるのでしょう。

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考えるに、・・・

宇宙・太陽・地球・生命・人間
全てが、幻想・仮想なのかもしれない。

その仮想のなかで、悩み・苦しみ・悲しみ・喜び・楽しみなどの喜怒哀楽、地位や財を求め蠢いているのではないでしょうか。

生命が生まれたところの宇宙!
その宇宙の時間からすると仮想時間・空間も一瞬。

人間が蠢いているのが仮想であれ・一瞬であれ、何故に、悩ましいのか?

このリポートでは、仮想の中で蠢く浅ましさや理由などを色々な角度から探ってみました。




Rudolf Steiner
Geisteswissenschaft/Anthroposophie
( 精神科学/人智学 )

自然科学と精神科学(その1)

【  目次 】

◆ Prologue
◆ 自然科学と精神科学
◆ 精神科学・人智学
・・・ 私が思うには答えがない学び
◆ 答えのない世界観!
◆ 精神科学/人智学とは
◆ 精神科学の論理展開
◆ 自然科学と精神科学の融合
◆ 科学と宗教の違い

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自然科学と精神科学(その2)

【  目次 】


★ シュタイナーの思考・思想
★ 精神科学/人智学 の”理念”
★ 精神科学/人智学の基軸
★ 概略:Rudolf Steiner
・・・ 時代背景
★ より良き人間社会を創るために!
《 その1 》 人間の構成要素
★ より良き人間社会を創るために!
《 その2 》
★ 教育概論/シュタイナー学校
★ 人生での幸せとは?
・・・ 幸・不幸について
・・・ 快楽・苦悩、欲望
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 別添資料案内



《 Prologue 》

インドにて


最初に、私が精神科学・人智学を学んできて感じたことから書かせていただきます。

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私は、昔から精神科学・人智学は、宗教でなく科学/学問だと思っています。
しかし、信奉せずに学問として学ぶということの難しさを痛感しています。

それは、学ぶモノの周囲の環境だったり、学ぶ人及び人間関係だったりします。
この種の集まりでは、信じなければ弾き出される雰囲気があるのは否めません。
又、疑問など持ってはいけない雰囲気があります。

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私は、宗教にはある種の縛り(教義)の下に学びがあり、学問・科学の学びにはこの縛りがあってはならないと思っています。



私が思うところの科学や学問の学びとは、・・・・

誰もが学びにより その物語の中に入っていける”旅!”であり、方向や案内に間違いがあるならそれを認め修正していく”旅!”の物語でなくてはなりません。
入口も出口もはっきり示されている ”旅!”の物語
その”旅!”の物語で乗っている馬が、”競争馬”みたいに一方向だけの視界しか与えられずに、行き先が訳の分からない所に決められていてるのでは困ります。

私は、視界は広く・見通しの良い”馬”に乗って”旅!”を楽しんでいます。
そして、出口はいつも見えていますので、私に不向きのようなら、いつでも旅を止めるように心しています。

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~科学、~学と言うならば、・・・

その学びは、自由でありたいが、・・・
自由 ほど面倒なことはなく、覚悟がいることではないかとも思っています。

又、自由・自由と連呼し、自由に縛られては、それこそ不自由極まりない。
自由にも束縛されずに、中道でいることが私のスタンスです。

・・・ 偏らないということです。

自然科学・精神科学どちらにも偏らないレポートです。



ルドルフ シュタイナー ☆ 精神科学・基礎編/シュタイナー
Rudolf Steiner


私が書物に「神秘学」という書名を与えたことが、ただちに誤解を招いた。

多方面から”学”であろうとするなら、”神秘”であってはならないと言われたのである。 こうした異議は思慮が足りないのである。 それは、あたかもある内容を公表する者が、その内容を”神秘”にしたいと望んでいる、と言われたようなものである。

「自然科学」という言葉を用いる場合には、”自然”についての知識が扱われていることを暗示しようとしているのではないのか。 「神秘学」は、外的に自然の中では知覚されないという意味で、「秘密」に経過することがらについての”科学”なのである。

—– 後略 – ルドルフ シュタイナー

シュタイナーと人智学徒
シュタイナーと人智学徒
ルドルフシュタイナー


Rudolf Steiner
ルドルフ シュタイナー

シュタイナーは、自らの思考は精神世界のありのままを認識するという意味で、科学(Wissenschaft)なのだと述べ、 その思想/理念は、哲学、宇宙や生命の進化論に留まらずに、教育・医学・農業・芸術/建築・舞踏(Eurythmie:オイリュトミー) など幅広い分野に至っています。
又、シュタイナーは、自らの思想/理念を ”Anthroposophie (人智学) ” と名づけ、”宗教”ではなく”科学”であると述べています。
・・・ 要するに ” 学問 ” だと述べているのです。

そして、現代では互いに離反してしまった 「科学」と「宗教」と「芸術」の再統合を目指そうとした近世(シュタイナー:1861年~1925年)の思想家です。

シュタイナーの黒板画
シュタイナーの黒板画


自然科学と精神科学

”自然科学”は、人間の外面/表象を取り巻く、物質やエネルギーを対象にして、「生物」や「生活」等に視点を当てている学問で、 振り落としてきたモノを主軸にした ルドルフ・ シュタイナーが言うところの”※精神科学”は、人間の内面/根源的形成に迫り、「生命」や「人生」 等に視点を当てている”学問”として私は捉えています。

ですから、学問/科学であるならば、宗教的にならずに 客観的に且つ、是々非々で学ぶべきだと考えています。

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私見ですが、・・・
” 精神科学/人智学 ” は、ある意味では答えがない学びですので、真を理解するのは本当に難しい!
・・・ というのが 、長年” 精神科学/人智学 ” を学んだ私の考え方です。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇  ◇

シュタイナーの黒板画
シュタイナーの黒板画


精神科学・人智学 ・・・
私が思うには答えがない学び

当然、シュタイナーは、彼の見識・見解による論理で答えを出しているのですが、彼の言われる世界観が見えない・体験できない現在の私では、彼の論理の”答えは保留”する、としか言えません。

自然科学の恩恵を被った多くの方が同じ考えではないかと思います。
だからと言って、否定する方向に舵を切ってはいけないと思っています。
このような状況では、”保留”という言葉が、適切ではないでしょうか。



”保留”

私は四十年近くシュタイナーの思考を学び・研究してきました。
その間、シュタイナー関連のあらゆる書籍を読み、数年間は毎朝数時間、シュタイナーのいう瞑想・バラ十字の瞑想も行ってきました。(下記 シュタイナー関連書籍 参考▼クリック)

※ 精神科学・人智学関連書籍

私は、何しろ徹底してやっていくタイプですので精神世界に入るための足掛かりにと、私の五十代の十年間はインドでサドゥとの生活と瞑想に耽っていました。

まさしく、
タイトルに ” 変人の独り言 ” とありますが、” 真っ当な変人 ” になっていました。
こんなことをしても、精神世界のことを解る訳がないし、己の本質が変わる訳もないのにバカげた生活を送っていました。

ですから、タイトルは ” バカもんの独り言 ” にすべきでした。

インドでのバカもん


そして、六十代に入り、再度 シュタイナーのいう瞑想・バラ十字の瞑想 を徹底して行ってきました。
傍から見ると、驚くぐらいの徹底の仕方で瞑想していましたが、精神世界を認識することはできませんでした。

但し、瞑想期間中にドッペルゲンガー的なことが起こったのは事実です。
それ以外は、何も解かりませんでした。

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バラ十字瞑想


ここまでやっても認識できない世界とは、・・・ と、私なりに考えてしまいました。
そこで、七十歳になったのを契機に、一時・一切の瞑想や学びから遠ざかることに致しました。

考えるに、
何を学ぼうが学ぶまいが、・・・
ここまで生きてこられたのですから、どうでもよい事のようにも思えます。

又、残り時間の少ないこの先、
何を学ぼうが学ぶまいが、・・・
どうでもよい事のようにも思えます。

しかし、せっかく乗り合わせた船!
古くなった羅針盤ですが、それを使いながらもう一度航路を見直してみたいと思っています。

・・・ 残りの人生と共に!



ですから、解ったふりはできない。
いくら修練しても見えない・体験できないことを、理解しているように書くことはできないので、保留としています。

これは、否定ではありません。
私の学び方や修練の仕方、人間性に問題があるのかもしれません。
これは飽く迄も、私の個人的な見解です。

一例をあげると、・・・

※ 宇宙進化論:地球の形状 / 死後

などがあります。
別添で記載してありますの上記アンダーライン文字をクリック(タップ)してみて下さい。



ルドルフ シュタイナー ☆ 精神科学・基礎編/シュタイナー
Rudolf Steiner


「神秘学」 > この言葉は、現代のさまざまな人々にとって、直ちに敵対する感情を呼び覚ます。 多くの人々にとって、この言葉は、嫌悪感を持たせるものであり、嘲笑、さげすんだ笑み、そして、おそらく軽蔑を呼び起こす。

そうした人々は、この言葉が示されている考え方は、ただ無意味な夢想や空想に基づいており、そのような「偽りの」科学の背景には「真の科学性」と「本当の認識努力」を知っている者ならば、 避けるのが当然で、 あるあらゆる種類の迷信を復活させようとする衝動だけが隠されている、と思っている。

他の人々はこの言葉から、あたかも、この言葉が意図していることは、別の方法では達成できないことがらや自分の素質に応じて、 内的に深い認識の憧れや魂的に洗練された好奇心が引き付けられることがらを成し遂げてくれるにちがいないかのような印象をを受けるであろう。

これらの際立って互いに対立する二つの意見の間には、「神秘学」という言葉を聞いたときに、どちらか一方の意見の人が思い浮かべる内容を、条件付で拒否するか、 又は、同意するあらゆる可能な中間段階が存在する。

—— 「神秘学」という言葉が、「未知なるもの」、秘密に満ちたもの、それどころか明らかでないものについての、自然に即した方法では得る事のできない知識を求める、 取り返しのつかない結果を招くような欲求を満たすように思われるために、多くの人々にとって、その言葉に魔術的な響きがあることは否定できない。
すなわち、多くの人々は、彼らの魂のもっとも深いあこがれを、明らかに認識できるものによって、満足させたいとは思っていないのである。

—– 後略 – ルドルフ シュタイナー



見えない・体験できない世界観の学びですが、私でも透かして見える部分があります。
人間が、今生で生きていくための優しさや迷路で迷った時の羅針盤的な思考があるように感じています。

・・・ それで、この学びを続けられているのです。

シュタイナーの黒板画
シュタイナーの黒板画


人間の刹那的な人生!
自分も含めて実体などはないのでなないか と、思っています。
全ては幻想・蜃気楼の中での足掻き!

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幻想・蜃気楼の中だからこそ、答えがない学びが必要なのではないでしょうか。

シュタイナーの黒板画
シュタイナーの黒板画


答えのない世界観!

古今東西・左右どちらを見ても、自分達の群れを守っていく為には、少しでも自分達と異なる動きをするものを弾き出そうとする、 人間の本能的な働きがあるようで、自分達と異なる考えや動きをするものを「別種/異物(ある意味では魑魅魍魎)」として見る。

注意が必要です。
今の社会状況では、仕方がないことですが、答えがない学びも 別種/異物(ある意味では魑魅魍魎)」と 同様に考えられる傾向があります。

それが、現在の社会状況です。

しかし、
論理が正しければ、人々(人類)もいつかは気が付き変わります。
・・・ そんなもんです!

ヨーロッパの道化師
写真は、ベルギーのアントワープという街で撮った風景の一コマです。
・・・ 少し変わった格好の人!
芝居の修行なのか、何かを訴えているのか 或いは、 正常ではないのか?
いずれにしろ、子供は興味を持ち話しかけますが、大人は、危険・関わらないほうが良いという姿勢で通り過ぎていきます。 ある意味で、「別種/異物・魑魅魍魎」として見ています。
社会状況からしてやむを得ない事なのですが、考えさせられた風景でした。


この風景や姿勢が意味するものが現在の国や”社会・集団” そして、集団に飲み込まれた個人なのかもしれません。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇  ◇

ま~、このような考えの人間が”自由”に纏めたものです。

シュタイナーと人智学徒
シュタイナーと人智学徒


精神科学/人智学とは

彼の思考論理・思想は、自然科学の世界や物質的な思考では認識できない”人間の本質”に迫ろうとする概論で、霊的魂的観点からの宇宙進化/人間進化、そして、”死”を どう捉えるか、 或いは”死後の世界”などの 一つの考え方を提示し、 物質に特化しているこの世の中で、” 自己の存在を確認し、自己が見聞きする世界 ” が、揺るぎのない ”真実 ”であるという根拠は?・・・  という疑問を呈しています。

そして、彼が 霊的魂的洞察から導いた一つの理念/思考を、人々に広く伝えようとしていたものは、精神世界(霊的世界)をただ崇めるだけの宗教や霊媒的なプロセスを介しての心霊主義者のヴィジョンとは異なり、精神世界のありのままを認識するという意味で、科学(Wissenschaft)なのだと述べています。

これが、”精神科学 / Geist(精神,霊)の Wissenschaft(科学)=Geisteswissenschaft ” の思想的な由来なのです。

シュタイナーの黒板画
シュタイナーの黒板画


”精神科学の論理展開”

シュタイナーの論理は、唯物論に対しての唯心論或いは仏教的な唯識論に近い論理展開をしています。

近い論理ですが、・・・ シュタイナー論理の根源に置くものは、”心的なものや空・ 阿頼耶識” ではない”魂・霊的存在”ですので、異なっているんです。

又、この ”魂・霊的存在” というものが、俗に言われているアニミズムやシャーマニズム的にとられて誤解や間違った解釈をされがちなのも事実ですが、ルドルフ・シュタイナーの主張する精神科学=霊科学(Geisteswissenschaft) は、たんなる感覚や感性による経験科学ではなく、シュタイナーの言う ”Geist” は、人間の肉体に宿った「精神」や、 時代や民族が共有する「精神」ばかりでなく、真理としての「精神」に近づくために「霊・魂」にも思考や体験が及び、 その踏み込みにより、人間の内部に存在している健全な”予感”を導き出し、現代人の迷信や勘違いしている霊的・魂的思考を、正しく拡張し働く”魂の活動(思考)”に戻して、 精神・生命・肉体に潜む超感覚的認識力を、現代人の智恵により変化対応(時代に即した)させ、新たな(正しい)認識へと導く手法(修練)の ”科学/学問 ” ではないかと、私は考えています。 

物理主義でも宗教的思考でもない彼独特の思想に基づく学問なのですが、シュタイナー教育などでは賛否両論あるのも事実です。

ルドルフ シュタイナー ☆ 精神科学・基礎編/ドルナッハ
 Dornach / Switzerland

自然科学と精神科学の融合

Rudolf Steiner 
Geisteswissenschaft / Anthroposophie


Geisteswissenschaft / 精神科学

《 学びの整理 》



シュタイナーは何故に、難しいすぎる叙述、誤解されるような叙述、読解力のない人  或いは、私みたいな馬鹿もんは近づくなとも思えてしまう叙述に終始しているのだろうか?
それ故に、巷間、シュタイナーの思想・思考の学びで誤解や理解の仕方に差異が生じているのではないか?

”心の学び”でもある精神科学! (と、私は思っています。) 
・・・・・・  率直に人の心に働きかける/うったえる言い回しや言葉で表現できなかったのだろうか?  などと、単純な私は考えてしまいますが、ルドルフ シュタイナーには深い読みがあったようです。

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Rudolf Steiner

神智学と神秘学は、難しい表現による文体に同意して読んでいく読者の善意を前提とする書物として広く普及した。 私は全く意識的に、誰にでも分る叙述ではなく、正しい思考の努力によってしか内容の中に入っていけないような叙述に努めた。
私はこれによって、読むこと自体が霊的修練の始まりになるという性格をこれらの本に刻印したのである。 こうした読書に必要とされる冷静で慎重な思考の努力は魂の諸力を強化するのに必要なのです。

・・・ Rudolf Steiner

A.A.fromnow 資料 (シュタイナーと仲間達)
シュタイナーと人智学徒

近代哲学の祖「デカルト」は、この世界の存在がユメマボロシかもしれないと全てを疑った結果、その疑っている自分自身の存在に行き着き、この存在だけは疑い得ないと考え、有名な「我思う、故に我在り」という言葉を残している。

これが、実存思想・自然科学の基礎になっている、デカルトの「明証性」です。

しかし、シュタイナーは、この根源的真実を捉えていない外的(物質的)思考自体が間違いであると指摘している。
何故ならば、デカルトの「明証性」は、外的要因の ”物質やエネルギー” だけを中心にすえ、内的要因を封印しての結論ゆえに、 この世(物質社会)で創られた”我の思考”と”我の存在” でしかないという考え方をしています。
そして、シュタイナーは、デカルト以降の近代自然科学の落とし穴や疑問について警鐘を鳴らし 且つ、社会状況を愁い!自分が体感し読み取った ”真理 ” を伝えなければならないという使命感が働いたのではないか?



Geisteswissenschaft
科学と宗教の違い

シュタイナーの黒板画
ルドルフ シュタイナ/黒板画


”精神”のことを英語では「Spirit」、ドイツ語では「Geist」と言います。
では、”霊”のことはどうか?
英語では「Spirit」、ドイツ語では「Geist」といい、”精神”と”霊”は同じ言葉でも表され、日本語のように明確には分かれていません。
ですから、”Geisteswissenschaft” を”精神科学”と訳す人もいれば、”霊科学”と訳す人もいますが、どちらも正しいのです。
 
現在の日本(日本語)では、”精神”と”霊”を同じ言葉や意味合いで表現することはありませんが、欧米/キリスト教文化圏では、私たち日本人が考える”精神”と”霊”のようには考えていません。
この違いを認識して、シュタイナー叙述を読み進めないと途惑う事もありますので、注意が必要です。
因みに、肉体/死体についても、私たち日本人が考える、仏教的な思いとは異なっています。

日航機/御巣鷹山事故の際、現場検証での被害者のご遺体に対するアメリカと日本の対応の違いには驚かされました。
その違いについては、当時の新聞や山崎豊子氏の大作「沈まぬ太陽(三)御巣鷹山篇」にも詳しくでています。

また、思考形態の違いは、肉体/死体 だけでなく ”自然”に対する考え方も、ヘブライズムをベースにしたキリスト教圏の西欧諸国とブディズムが根底にある日本や東洋諸国では”挑みと共生”の違いがあるようです。
どちらが正しい・間違っているとかいう判断ではなく、文化の違いからくる”色”の見え方や”ベクトル的”な違いがあるのではないでしょうか。

基本的なモノは、表面に付着する思考や形態に関わらず同一であるべきなのですが、所詮・体を有する現生では、理屈と現状は一致しません。
ですから、欧米人のキリスト教をベースにした文化や思考と日本の文化や思考の違いを理解して読み進めて下さい。

そうでないと、 日本人の場合には、” 霊! なんだそりゃ~ ” と、単なる批判的思考に陥ることにもなりえます。

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欧米での宗教(キリスト教)は日常的というか生活の一部で、欧米人の体臭そのものに組み込まれています。
ですから、 ” 感じ方や理解の仕方 ”  それが、このような学びの難しいところであり宿命でもありますので、仏教等の文化の人々や宗教臭を嫌う人々とは、感じ方や理解の仕方が異なるのは致し方が無いことだと思っています。
そのようなことから、・・・
どうしても、ルドルフ シュタイナーの思考・叙述(アントロポゾフィー/人智学)の”学び”の途中で、繰り返すように疑問が湧き上がってしまいます。

その疑問は、シュタイナーの思考・叙述は、信じるという括りの”宗教”とみなすべきなのか、それとも是々非々で捉える”学問”として学ぶべきなのか? 
・・・・・ 或いは、前述したように「なんだかな~」 と、本を閉じてしまうか?

◇ ◇ ◇ ◇ ◇  ◇

シュタイナーは、湧き上がるこの種の疑問について、神秘学・アントロポゾフィーは”科学/学問”であるということを前提に”神秘学の性格”という文献で、下記のように述べていますので、参考にしてください。

ルドルフ シュタイナー ☆ 精神科学・基礎編/シュタイナー
Rudolf Steiner


■  Rudolf Steiner

神秘学者は、自然科学の価値を誤って判断するつもりはなく、かえって自然科学者以上にその価値を認めようとしている。

神秘学者は、自然科学にみられる思考方法なしには、どんな科学も基礎づけることができないことを知っている。

しかし、神秘学者は、この厳密さが、自然科学的思考の精神に真に通じることによって獲得されるならば、その厳密さを、魂の力を通して他の諸領域のために保持しておくことができることも知っているのです。
・・・後略

■  Rudolf Steiner

科学の成立は、本質的には科学が捉える対象からではなく、科学的な努力の中に現れる人間の魂の活動のあり方から確認されるのである。

科学を学んで身につけるときに、魂がどのような状態であるのかに目を向けなければならない。

感覚に明らかであるものが考察されるときにしか、この魂の活動のありかたは存在しないという習慣が身についていると、感覚に明らかであるものだけが本質的なものであるという見解に容易に陥るのである。 ・・・後略

■  Rudolf Steiner

日常や通常の学問においては、人間の認識活動は超感覚世界に立ち入る事の出来ない状態にある。

この(神秘学)証明は、人間の自然のままの眼は、その視力では生物の小さな細胞やはるかかなたの天体の状態にまで迫る事が出来ないことを示す為の証明と同じ価値しか持ちません。

通常の視力では細胞にまで達しないという主張が正しく、証明可能であるように、通常の認識では超感覚的世界に立ち入る事ができないという主張も正しく証明可能です。

しかし、通常の視力が細胞にまで及ばないという証明は、細胞の研究を止めさせる事にはならない。

だとすれば、通常の認識能力が超感覚世界にまで及ばないという証明が、なぜ超感覚世界の研究を止めさせる事になるのだろうか。
・・・後略

ルドルフ シュタイナ/黒板画
ルドルフ シュタイナ/黒板画


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自然科学と精神科学(その2)