シリーズ:旅の途中
《 独楽道楽 》

色々な景色やモノを見て、色々な人に出会う旅

無宗教者が知った仏教とキリスト教のいい話

無宗教者の仏教とキリスト教のいい話

”般若心経”
キリスト教の宗教詩 ・”浜辺の足跡”



《  まえがき 》

グローバリズム

グローバリズムに突き進む世界経済!
持てる者である資源国や国家・多国籍(グローバル)企業がますます富み、富の流れが偏り持たない国・者は、より貧しくなっていきます。
その結果、 経済的な格差が著しくなり国民の国家への”善”なる帰属意識が消え、経済的下~中位層の人々は、”悪意”に満ちたナショナリズムに傾いていきます。
グローバリズム!
国家主義・民族主義から離れるはずの主義・思想が、逆に振れてしまうのです。
ヨーロッパの ネオ・ファシズム やアメリカの民衆による トランプ大統領の選択などがその現れでしょう。

そして、 一部の多国籍企業による国際市場の寡占 !
現在、世界人口約70億人の下から半分の35億人の年間収入と上位26人の年間収入が同じらしいのです。

すごいですね、35億人=26人!
・・・ 笑っちゃうしかありません。

そんな時に目にした ”生命科学者/柳澤桂子氏 訳”の現代風解釈・般若心経とキリスト教の宗教詩 ・浜辺の足跡 を今回は取り上げてみました。

そこに、・・・ 将来のヒントがあるのかもしれません。


仏教

仏陀


般若心経の現代風解釈/訳
“生命科学者/柳澤桂子氏”

般若心経は、玄奘三蔵( 三蔵法師 )が630年頃にインドから中国に持ち帰り、それを翻訳したものが日本に伝わりました。

般若心経は、 日常生活の中での悩みや苦しみについての提言と解釈されていて、人間の悩みや苦しみは自分の外側から押し寄せるものではなく、自分自身の執着や欲望から生まれたものだと言います。

般若心経の現代風解釈/訳
"生命科学者/柳澤桂子氏"


私たちは 広大な宇宙のなかに 存在します
宇宙では 形という固定したものはありません
実体がないのです

宇宙は粒子に満ちています
粒子は自由に動き回って形を変えて 
おたがいの関係の 安定したところで静止します

形のあるもの いいかえれば物質的存在を 私たちは現象としてとらえているのですが、現象というものは 時々刻々変化するものであって 変化しない実態というものはありません

実体がないからこそ 形をつくれるのです
実体がなくて 変化するからこそ 物質であることができるのです

あなたも 宇宙のなかで 粒子でできています
宇宙のなかの ほかの粒子と一つづきです
ですから宇宙も「空」です

あなたという実体はないのです あなたと宇宙は一つです
宇宙は一つづきですから 生じたということもなく なくなるということもありません

きれいだとか 汚いだとかいうこともありません
増すこともなく 減ることもありません

「空」にはそのような 取るに足りないことはないのです
「空」という状態には 形もなく 感覚もなく 意思もなく 知識もありません

眼もなく 耳もなく 鼻もなく 舌もなく 身体もなく 心もなく 
形もなく 声もなく 香りもなく あなたをさわるものもなく 心の対象もありません

実体がないのですから 「空」には 物質的存在も 感覚も 
感じた概念を構成する働きも 意思も 知識もありません
眼の領域から意識の領域に至るまで すべてないのです

真理に対する正しい智慧がないということもなく それが尽きるということもありません

迷いもなく 迷いがなくなるということもありません
それは「空」の心をもつ人は 迷いがあっても 迷いがないときとおなじ心でいられるからです 

こうしてついに 老いもなく 死もなく 老いと死がなくなるとういうこともないという心に至るのです

そして、老いと死が実際にあっても それを恐れることがないのです



キリスト教

イエス・キリスト


一時の行動で、人を判断してはいけない

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キリスト教徒には有名な「サウロの回心」のサウロ(=パウロ)の話ですが、彼は、キリスト教をユダヤ教の一つの異端教派から世界的な宗教に変えた人です。

彼は、初めは熱心な「ユダヤ教徒」で「キリスト教」の迫害者だったが、「サウロの回心」にあるような特異な光の体験後、熱心な「キリスト教徒」に回心し、世界宗教・キリスト教の存在にはなくてはならない人になっています。
一時の行動では、人間は判断できないということです。

私はクリスチャンではないのですが、上記のことも含め、ある本で読んだアウシュビッツでの「コルベ神父」のことや、 コルカッタのマザーテレサ/「死を待つ人々の家」での体験が思い出され、”信仰”の持ちうる優しさや凄さを感じます。

そこで、優しさや凄さを表現した有名な宗教詩(キリスト教):≪神われらと共に  (別名・浜辺の足跡)≫を紹介いたします。



キリスト教の宗教詩 
神われらと共に  (別名・浜辺の足跡)
☆ ☆ ☆ ☆
ブラジル詩人
Adhemar de Paros

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夢をみた、クリスマスの夜
浜辺を歩いていた、主と並んで

砂の上に二人の足が、二人の足跡を残していった
私のそれと、主のそれと

ふと思った、夢のなかでのことだ
この一足一足は、私の生涯の一日一日を示していると
立ち止まって後ろを振り返った
足跡はずっと遠く見えなくなるところまで続いている

ところが、一つのことに気がついた
ところどころ、二人の足跡でなく
一人の足跡しかないのに

私の生涯が走馬灯のように思い出された
なんという驚き、一人の足跡しかないところは
生涯でいちばん暗かった日とぴったり合う

苦悶の日
悪を望んだ日
利己主義の日
試練の日
やりきれない日
自分にやりきれなくなった日

そこで、主のほうに向き直って
あえて文句を言った

「 あなたは、日々私たちと共にいると約束されたではありませんか
なぜ、約束を守ってくださらなかったのか
どうして、人生の危機にあった私を一人で放っておかれたのか、まさにあなたの存在が必要だった時に 」

ところが、主は私に答えて言われた

「 友よ、砂の上の一人の足跡しか見えない日、それは私がきみをおぶって歩いた日なのだよ 」


以上です