” シリーズ:八ヶ岳思考 ”
ビルが林立する都会から離れ、木々が林立する八ヶ岳の山の中で、星空を眺めながら思考するシリーズです。
時には、普段の生活から離れて 景色を見たり・学んだりするのも一考かと思います。・・・ それが、 ” シリーズ:八ヶ岳思考/ヨガ – ヨガ瞑想編 ” です。
ヨガ – ヨガ瞑想概論
私は、ヨガやアユㇽヴェーダの専門家ではありません。というか、全くの素人ですが、50代の10年間にインドに嵌ってしまい、インドでの生活を体験しているうちに、インドの神秘性にも嵌ってしまいました。
そこで、インドの風土・風習、宗教、歴史 そして、サドゥの生き方にも興味が向かい、生活を共にするようになり、その中から曼荼羅、ヨガ・アユㇽヴェーダや神秘思想などにも興味が向かいました。
60歳に入りインドで体験したことを記録に残し、その道のことを研究してみようと考えて、このような素人の研究や体験記録を作ってみましたので読んでみて下さい。
★ ★ ★ ★
某真理教が、2~30年前にヨガ道場から宗教集団に変異し、大きな事件を起こしたことを思いだすと、神秘思想などと言うとチョットばかりヤバそうですが、その類の特集ではありませんので安心してお読み下さい。
☆ ☆ ☆
INDEX – NO1
《 A 》
Prologue
私的瞑想思考
ドヤーナ (ध्यान dhyāna)
瞑想とは何か?
《 B 》
本題/ヨガ・瞑想
修行法のヨガの一つ
クリヤ・ヨガ( KriyaYoga)
《 C 》
クンダリーニ覚醒とは
《 D 》
ヨガの”行”について
仏陀の呼吸法
ヨガナンダ
クリヤ・ヨガの呼吸法
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ヨガ・瞑想 – NO2
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INDEX – NO2
《 E 》
瞑想とは
インドでのヨガ☆瞑想体験談
《 F 》
岩場で座禅瞑想をする人
《 G 》
私の50代はインド三昧
インドの話
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ヨガ・瞑想 – NO3
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INDEX – NO3
《 H 》
ヨガ・ヨガ瞑想の根源
アーユルヴェーダ―
《 I 》
ヨガ・瞑想にも繋がる
ヒンドゥ教の人生訓
瞑想/Meditation
この特集は、 ヨガの教本的・専門的なリポートではありません。
私の体験談を交えながらの私的ヨガ・瞑想論(迷想論)と考えて下さい。
《 A 》
ヨガ – ヨガ瞑想概論
Prologue
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
私的瞑想思考
私たち日本人は、心が散漫になることを嫌い、一心不乱に精神を集中することが好きで、日本でのヨガ瞑想は、そこに焦点を当てた”行い・思考”になっているようです。
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しかし、私が体験したインドでのサドゥとの瞑想は、執着や集中から離れ、心静かな時・沈黙を得るために”瞑想”し、その沈黙の中から真理を悟ることだと思っていますので、皆さんが思っているヨガ瞑想とは路線が異なるかもしれません。
ヨガという術(すべ)からは離れるかも知れませんが、なにも結跏趺坐(けっかふざ)しなくてもいいのです。
極論ですが、立っていても横になっていてもできるということで、病気の方や体の不自由な方でもできる瞑想法で、心の持ちよう次第で体の不自由な方でも”ヨガ”の境地に達するそうです。
私の体験(教わった)瞑想は、・・・
何故に瞑想か、という点で「人生の苦しみや悩みに向き合い・その部分を清算し、自己の気質を鑑みる。」ことにあり、一番必要としている方々にもできるというヨガ/瞑想のようです。
所謂・ぐ~たら人間が行きついた心広き瞑想法です。
☆ ☆ ☆
瞑想 > 禅 > 禅定は、サンスクリット語では”ドヤーナ (ध्यान dhyāna)”といい、私が感じたサドゥの瞑想は、このドヤーナではないかと思っています。
ですので、一般的に日本人が考える瞑想とは少し意味合いが異なります。
又、一般的にヨガというと、ポーズ(アーサナ)をとるヨガを思い浮かべますが、究極的なヨガは瞑想にあります。
私が見聞きしたサドゥの瞑想は、前述したように精神を集中させるというよりも、心穏やかに物事の真理を見極めるという意味合いが強くあるようです。
繰り返しますが、・・・
それは、
”ドヤーナ (ध्यान dhyāna)”なんだと思います。
インド古来からの禅定の教えにある ” 非想非非想処 ” に至る瞑想法です。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
”ドヤーナ (ध्यान dhyāna)”
ドヤーナ的瞑想は、心をボ~とさせることで、世間の事象の執着(煩悩)から解き放すことが目的のようです。
・・・ 心の中を空(くう)にするということです。
所謂、頑張れ・頑張れというのと、頑張らなくてもいい・頑張たっら何も見えなくなりますよ、という違いです。
瞑想 > 心をボ~とさせる
頑張るな、・・・ いいですね!
グータラな私にはピッタリ合っています。
しかし、この”ボ~とさせる”のが難しい!
・・・ なにも考えない!
私は、絶えず何かを考えてしまう癖があるので、”ボ~とさせる”のに意識を集中したのでは本末転倒になる。
”ドヤーナ (ध्यान dhyāna)”
やっぱり、ヨガ/瞑想ですね。
・・・ 簡単なようで難しい!
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このように、私の紹介するヨガ瞑想は、精神集中ではなく、行為の中で何かが見えたり、自分自身が変わったりするわけでもなく、美容や健康維持でもありません。
正しいヨガの呼吸法を学び、執着(煩悩)から心を解き放すことが目的です。
一時でも、穏やかな時が持てたらそれで充分と思う心!
その為の瞑想コーナーです。
尚、このコーナーは、心をボ~とさせる、頑張らない、できれば少しでも心の中に”余裕”というものが入る隙間をつくるための瞑想談義ですが、一般的なヨガ瞑想の基本的なことや体験も記載しています。
瞑想とは何か?
大脳新皮質の活動を停止させ、その時に起こる現象に意義を持たせたものだと思います。
その時に、起こる変化!
この変化や覚醒の度合いを高めるのに瞑想があり、それには呼吸法が重要な働きをします。
覚醒度合いを高めるための瞑想として、南米のインディオや中央アジア・北アメリカの先住民などは、ドラッグを使って過呼吸状態にします。古来から先住民のシャーマンは、この方法で異次元(トランス状態)に入って精霊と交信し、治療や予言をしています。
(註)日本や多くの先進国では、瞑想のためとはいえドラッグは当然違法です。
私も現地で一度だけ、サドゥ付き添いのもとでドラックによる瞑想を試みました。
迂闊にも薬草なのか、薬物なのか、ドラックの種類は聞きませんでした。
確かに、この方法による瞑想では、トランス状態にはなり、異次元の色彩や歪んだ空間(宇宙空間的)の中に入り込み、訳の分からないものが見えますが、ただそれだけです。
覚醒状態からこちらに戻る時の苦しさは例えようがありません。
私見になりますが、・・・
この瞑想法(ドラック使用の瞑想)での覚醒では、苦しいだけで表面的な”触り”にしか入れないことが分かりました。
そのような訳ですので、本道(ヨガ瞑想)の呼吸法をシッカリと学び、そこから”心のひだ”を解きほぐすことが正道だと思います。
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但し、この種の”学び”には精神的なこと、”行為”には身体的なことの負担や危険が伴うということを忘れてはならないと思います。
本来のヨガは、インド古来のバラモン教>ヒンドゥー教の宗教行法/解脱に至る修行の一つで、単なる美容法や健康法とは違いますので、正しい専門家の下で行うことをお勧めいたします。
☆ ☆ ☆
人は、何故 悩み・苦しむのだろうか
そして、何故 瞑想を試みるのか
インドでお会いしたヨギ/サドゥ
彼らは、殆ど声を発しません。
一日中半眼で一点を見つめています。
体は、骨と皮だけのようにも見えます。
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参考までに、私が見たヨギ/サドゥの生活ですが、
住まいというか寝ている処は、
ガンガ(ガンジス河)上流の河原には大きな岩が沢山ありますので、その岩と岩の間に木を跨がせ藁をのせ屋根代わりにして住んで(寝て)います。
広さは、それぞれですが、おおよそ2畳くらいはあります。
風流で星が見えます。
しかし、雨が漏りますので、藁の下にビニールをひいている処もありました。又、簡単な木戸をつくっている処もあります。
寝床は、木と藁紐のようなもので組み合わせてベッドをつくり寝ています。・・・ 夜は結構寒い!
寒い時には岩と岩の間ですので小さな木々を燃やして暖をとります。
それでも寒い!
食はどうしているかというと、ヒンドゥには”四住期”という生き方があり、その最終期の”遊行期”に達したサドゥが自分たちの代わりに瞑想してくれているという考え方があるので、一般の方が施しで野菜や食べ物を提供しているところがあり、そこから持ってきます。
時には、素手で魚を取るそうです。
又、僧侶が朝晩に河原に置かれた大きな釜を使い、食事をつくり提供していました。
誰でも食せますので、私もいただきました。
飲み水はガンガ(ガンジス河)の水を飲み、排泄はそのガンガでしますので、河原の岩にはその残骸が沢山あります。
☆ ☆ ☆ ☆
彼らを見ていて、
死を見つめているということを感じた。
彼らは、生きている間の欲望を清算し、その欲望を何とか捨てようと努力している。
欲望を捨て去る/”無”とする
お金、財、家族/執着などを”無”にする。
死ねば身体も”無”に帰す。
心/思考も”無”とする。
・・・ 非想非非想処の境地!
ウパニシャッドに基づいた生き方なのだろう。
ウパニシャッド
उपनिषद् upaniṣad には
インド哲学研究者 前田専學氏
「ヴェーダとウパニシャッド」
《 人間の誕生と死について 》
純粋精神プルシャは、”この世”に生まれ、肉体を得るとき、”悪”と結合する。
それが”この世”を去り、死ぬときに諸悪を捨てることになる。
そして、今の身体を去った後、直ちにその人の”知識と業と前世”に関する記憶を伴って、微細な原理である心が執着しているところに赴き、その業の報いを得て、また再びかの世からこの世に行為をなすために還ってくる。
しかし、身体に宿っている欲望がすべて捨て去られると、ブラフマンに帰すことになる。
欲望を持たず、欲望から離れ、欲望を超越したものは、欲望がなければ行為は起こらず、”業”は蓄積されることもなく、輪廻に赴く原因が無くなり、輪廻から解放されブラフマンに帰す。
・・・ と、記されている。
彼らは、物質的な終活を終え、ある意味では”精神的な終活/心の終活”をしているのではないかと思いました。
彼らの生き方/哲学は、
欲望を乗り越えようとしています。
しかし、決して頑張ってはいません。
朝晩飯を食うように、瞑想を生活の一部にしています。
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名もなく・貧しく・きたならしくの姿!
生きる苦悩との戦い ~ 開眼!
顔から笑みがこぼれているように見える
そこから醸し出す優しい空気!
この姿が本来のヨガ及びその瞑想なんでしょう。
ヨガと瞑想 ・・・
本格的に瞑想しているヨギ/サドゥの姿には心洗われる。
来世を信じるヒンドゥ・ヨギは、今生の苦しみを来世に持ち込まないために修練している。
ヒンドゥ・ヨギは、今生の苦しみを乗り越えれば、畜生には転生せずに来世でも人として、今よりは良い人生が待っている 或いは、輪廻を越え”ブラフマン/ブラゥナー”のもとに行けるという ウパニシャッド(उपनिषद्)の教えのもとに辛い修行にも耐えている。
《 B 》 ヨガ・瞑想
参考として、一つのヨガについて簡単に説明いたします。
▼ ▼ ▼ ▼
修行法のヨガの一つに”クリヤ・ヨガ( KriyaYoga) ”というものがあります。
”クリヤ”は、行為・行いを意味する言葉で、一体・結合を意味する言葉が”ヨガ”です。
ヨガ行為を行う人を”ヨギ”と言う訳です。
根源的宇宙エネルギー(神)のことを”ブラゥナー ”といい、そのものと一体・結合する行為・行動がクリヤ・ヨガの基本であり、精神性に重点を置いたヨガの原点的なモノではないかと思っています。
”クリヤ・ヨガ( KriyaYoga) ” の詳しい歴史については専門書にお任せするとして、ここでは簡単に記載しておきます。
AD200年頃に、ヒマラヤで修行してた不老不死の聖者 ” マハー・アヴァター・ババジ(Mahavatar Babaji )” が、インドの聖者に伝わるヨガを蘇らせ、20世紀に入って、ヨガの指導者 ” パラマハンサ・ヨガナンダ ( Yogananda / AD1893~1952 ) ”によって世界的に普及したようです。
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マハー・アヴァター・ババジ ですが、マハーは「偉大」を意味し、アヴァターは「神の化身」を意味し、ババジは「聖父」を意味する言葉です。
詳しく知りたい方は、ヨガナンダ の著書に『あるヨギの自叙伝 (森北出版) 』 がありますので、参考にしてみて下さい。
それによると マハー・アヴァター・ババジ に は、 神仏に近い伝説があるようです。
尚、インド(サンスクリット語)で、ババ( Bābā )と言えば 、「父」を意味する言葉で、サティヤ・サイ・ババ( Sathya Sai Baba / 霊的指導者 )や シルディ・サイ・ババ ( Shirdi Sai Baba / 霊的指導者 )が有名です。
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このクリヤ・ヨガは、呼吸法を基本として己を浄化するための スピリチャルなヨガで、現在一般的に言われる健康法やポーズなどをとる”ヨガ”とは異なる位置付けではないかと思っています。
ヨガ瞑想の一つの種類・方法として参考にして下さい。
ヨガ・瞑想
何をしても、しなくても、煩悩多き人間(私)なんてものは変わらないと思っていますが、試したくなるんです。もしかしたら、少しでも煩悩や執着を捨て去ることができるのではないかと思ってしまうのです。
少しでも煩悩・執着を捨て去る!
その為のヨガ・瞑想なんですが、・・・
修練している時・反省している時には煩悩も少なくなるのですが、すぐに元の木阿弥状態!
それを繰り返して、やっとこ・なんとか”人間”らしくなっていくような気がします。
《 C 》 瞑想とは
瞑想での現象を自然科学/医学的に判断すると、大脳新皮質の活動を呼吸法により停止させることにより、脳内に特殊な現象が起こり、その際に何かが見え、そして変化が起きてくる状態をさすらしいのですが、私は、自然科学的な判断では理解できない・何かがあるように考えています。
・・・ この特集では、その”何か”を探りたいと思ています。
尚、エリアーデ”の書籍「シャーマニズム」によると、中央アジア/チベットあたりの瞑想法は、シャーマンが種々の方法で”トランス(過呼吸)”状態に導いたり、修練による呼吸法によるものですが、 南米のインディオやアメリカ先住民・アマゾンの住民は、幻覚性植物(所謂:ドラッグ)を使う瞑想により霊的体験をし、病の根源や神仏・先祖そして自我との対話を試みるようです。
このように色々な瞑想法がありますが、気持ちよくなる時間(開放感)や超能力的な力を持つ為だけの技術(錯覚瞑想)でなく、真理に近づく為のとても重要な過程/修練としての【 瞑想 】もあります。
正しい瞑想により潜んでいた”自我”や”潜在能力・未知の力”等と対峙・対話すことも出来るようですので、真摯に向かい合うことも必要だと思いますが、雑念から抜け出せない私には【 瞑想 】の意義について解らないことだらけです。
《 D 》
ヨガの”行”による ・・・
クンダリーニ覚醒
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クンダリーニとは、ヨガの用語で、生命の根源的なエネルギーを意味します。
宇宙に存在するとされる根源的宇宙エネルギーのことをブラゥナーといい、このブラゥナーが人間の肉体の中で存在している状態(エネルギー)をクンダリーニといいます。
このクンダリーニは、通常・人間の肉体に閉じ込められているということで、人間が生まれるということは、このクンダリーニが分割分有(親と子)されるということにもなります。
クンダリーニは、脊椎の真下の会陰(一つのチャクラ)のあたりにあり通常は静かに眠っていますが、ヨガの行によって覚醒します。
覚醒したクンダリーニは、脊椎にそって体内を上昇していき、その過程で七つのチャクラにおいて、外の宇宙エネルギーと交信することになるようです。
それによってクンダリーニは、ますます活性化されていき、更に上昇してついには、頭頂部の最後のチャクラから外に抜け出ます。
そこで肉体から開放された生命エネルギーは宇宙エネルギーと一体になり”神”とも一体化するといわれます。
この場合の”神”とは宇宙の根源的なエネルギーそのものを指します。
インドの思想背景には、この世の全ての存在は仮象であり、真の実体は唯一つで、それが先ほど述べた”神(ブラゥナー)”なのです。
このクンダリーニを覚醒させ、チャクラを開く為には、ヨガの”行”が必要になるようです。
《 E 》
ヨガの”行”について
座禅を組み、足のかかとをクンダリーニが眠る脊椎の真下の会陰(一つのチャクラ)のあたりにあてがうようにします。
坐し方は結跏趺坐(けっかふざ)です。
右の足を左の股の上にのせ、左の足を右の股の上にのせるのですが、はっきり言って普通の人(私も含む)にはできません。
修練を積んだ方や体の柔らかい人以外は無理なので、修練も積まずに体の固い私は普通のアグラで行います。
又、手の組み方にもしきたりがありますが、これも自由にしています。
☆ ▼ ▼ ▼ ☆
(註)
私のヨガ瞑想は、野狐禅的な自由瞑想なので正道ではありません。
形だけでなく瞑想中には様々な悩みなどが駆け巡り、雑念も多く”無”の境地とは程遠いのですが、それを良しとして自分との対話を楽んでいます。
正道のヨガ瞑想を試みている方からすると、トンデモナイことだと思います。
その通りで、
私のヨガ瞑想は、トンデモナイモノで、瞑想ではなく”迷想”なんです。
人生に迷い、生き方に迷い、価値観に迷い、そして生死にも迷いながら、何かを探し求め”想い”を巡らせています。
☆ ☆ ☆
何かを探し求めながらインドまで行ってしまった変人の、
・・・ 雑念多き”迷想”なんです。
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”本末転倒のヨガ瞑想”
私見になりますが、結跏趺坐で瞑想している姿は本物/本格的に見えて”カッコウ”いいですね。
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因みに、私のヨガ瞑想は、”ブザマ”に見え・その上嘘っぽいのです。
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某真理教の麻原氏や幹部は、皆・完全な結跏趺坐で瞑想している姿がテレビに映されました。
すごいな~、と思いましたが、本末転倒ですね!
ヨガ瞑想の本意・真髄を逸脱した”カッコウ”だけの姿でしかない結果を招きました。
その彼らは死刑が執行されてもうこの世にはいない。
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”本物”というモノの定義は分からないが、
巷での注意点は、結構”本物っぽく”見えるものにあるのではないかと思っています。
偉そうなことを言っていた僧侶が、とんでもない守銭奴で色ごと好きだと言うのを知っています。
偉そうなことを言う方には注意!
☆ ☆ ☆
瞑想に戻ります。
当然・基本は大切ですが、”カッコウ”だけに囚われずに自らに何のために瞑想するのかを問い、本意・真髄を見失わないようにすることが最も大切なことだと思います。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
成功者でも失敗者でも、金持ちでもホームレスでも、有名であろうがなかろうが、誰にも平等に訪れる”死”!
上記写真の”マニカルニカガート”では、人生を全うした人々の灰がガンガ(ガンジス河)に流される。そのそばで子供が遊び、時には新郎新婦までが参加している。
まるでお祝いのように死者を見送る。
どんな人生であれ全うする ・・・
死ではなく次の世界への旅たち!
何のために瞑想するのか?
その本意・真髄を、私なりにダラダラと書き記しています。
インドのサドゥ/ヨギに教わったことです。
『 無理せずに、あなたができる瞑想法でやりなさい 。ヨガ瞑想の真髄は、一時でも、穏やかな心が持てたらそれで充分なのです。 』
☆ ▼ ▼ ▼ ☆
そして、目は半眼にして1M~2M先の下を見るようにします。
半眼にするには意味があります。
目を閉じると寝てしまうか 或いは、要らぬ妄想が駆け巡り瞑想の邪魔をします。
又、全開にすると要らぬものが目に入りすぎて、やはり瞑想の邪魔をしてしまうとのことです。
目線の距離についても半眼と同じような意味合いがあるようです。
専門家がどのように言われるかは分かりませんが、友人のサドゥ/ヨギ個人の意見です。
私は、理にかなっているので納得しました。
しかし、慣れるまでは半眼は難しい。
グータラな私は、すぐに目を閉じて眠りの境地に入ってしまいます。
・・・ それでも良しとしています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
眠らないようにして、・・・
そこからヨガの独自の呼吸法により息を整えます。
ヨガの呼吸法には色々ありますが、基本は鼻呼吸:鼻から息を吸い込み鼻から吐き出す方法です。グータラ人間の私の場合は、その呼吸法一つで充分だと思っています。
大きく息を吸って息とともに宇宙エネルギーを吸い込み、一旦息を止めて宇宙のエネルギーを体内に循環させてからゆっくりと吐き出します。
鼻呼吸で、吸う:吐くを1:2 くらいの割合で行い、・・・>>>
・・・ 注釈の後へ
【 注釈 】
呼吸法には諸説あります。
呼吸法や吸う:吐くの割合などは、”学び舎”によって多少異なるようです。
私が考えるには、割合も大切ですが、それよりも下記のことに重点をおいてはと思っています。
—————————
ブッダの呼吸法
※ 前正覚山で苦行・瞑想をしていた仏陀は、断食・断眠、そして、最もつらい断息まで試みている。仏陀は、その結果から得た正しい呼吸法を語っている/(仏陀の呼吸法)。
仏陀(ブッダ・釈尊)は、
【 瞑想時、息を吸うときには、息を吸っている自分に気づき、吐いている時には吐いている自分に気づくこと。
歓びを感じながら息をし、心を感じつつ、心を静めて呼吸する。
心を安定させ、心を自由に解き放すように息をする。
そして、無常を感じ、生の消滅を感じ、自己を手放すことを意識しつつ呼吸しよう。 】
・・・ と説いています。
下記の参考書籍によると、
”ブッダの呼吸法は”、サティ > 気づきで、生きていることに気づき・呼吸できている歓びに気づくことで、突き詰めると「今ここで自分の内外に起こっていることをありのままに気づく心の作用」に行き着くのが”ブッダの呼吸法”のようです。
※ ヨガ瞑想の真髄ではないか。
【 参考図書 】
釈尊の呼吸法/村木弘昌著:春秋社
呼吸による癒し/ローゼンバーグ著
井上ウイマラ訳:春秋社
—————————
又、前述のヨガナンダ の著書 『 あるヨギの自叙伝 (森北出版)には、【 瞑想を試みる時には、吸う息を吐く息に提供し、吐く息を吸う息に提供することによって、ヨギはこれら二者を中和する。
こうして瞑想する彼は 、心臓からプラーナ(梵: प्राण、prāṇa:呼吸・気息)を開放し、生命力を自己の支配下におくことになる。】 となっている。 』
鼻呼吸で、吸う:吐くを1:2 くらいの割合で行い、・・ >>>
>>> 同時にあらゆる感覚の働きを押さえ、無意識にわき上がる不要な雑念に心を乱されないようにします。
このような瞑想を続けていくと、チャクラがどんどん開いていき、やがて 最高のチャクラが開き、意識の世界も無意識の世界も超越した精神の自由な世界に入ります。
それが、自我が宇宙エネルギーと融合した境地で、”三昧”といわれる世界です。 これがいわゆる解脱(moksa)の境地になります。
クンダリーニが目覚め、チャクラが開いていくに従って、肉体にもさまざまな変化が現れます。
—————————
ヨガの”行・瞑想”によるクンダリーニ覚醒を簡単に説明するとこのようなことになりますが、このような”行”や”瞑想”は、体に異変を起こすこともあるので、本物/専門的な知識を持った方に誘導してもらい行わないとなりません。
また、勘違いされている方もいると思いますので、再度・記載しておきます。
・・・・ ヨガは、インド古来のバラモン教>ヒンドゥー教の宗教行法/解脱に至る修行の一つで、単なる美容法や健康法とは違います。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
次のページに継続します。
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ヨガ・瞑想 – NO2/ Index
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《 E 》
瞑想とは
インドでのヨガ☆瞑想体験談
《 F 》
岩場で座禅瞑想をする人
《 G 》
私の50代はインド三昧
インドの話