八ヶ岳思考
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”八ヶ岳思考 ”とは
個人的な興味の範疇での”一人芝居”
いわゆる、
未熟な演技の旅芸人のコーナー
【 瞑想・自我 】
人々は、何故に瞑想などを試みるのでしょうか?
瞑想
自我/不安・恐怖・怒りとの対話
フロイトの「精神構造論」では、自我は三層構造になっているとし、下部の自我~超自我と呼ばれる上部の自我に分類し、快楽原則を原理とし自己を本能的行動に走らせる自我から理性や理想・倫理観のもとに導こうとする超自我と段階的に分け、一体としています。
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尚、ルドルフ・シュタイナーが述べている「自我」については、「神秘学概論」の第二章「人間の本質」・第三章「眠りと死」等で述べていますので、そちらを参照下さい。
参考にチョットだけ・・
”人間の構成要素”
シュタイナー曰く、・・・
人間は、”自我”・”アストラル体”・”エーテル体”・”物質体”の四重生存構造で存在していて、人間の構成要素を詳しく言うと七つあり、「物質体」「エーテル体または生命体」「アストラル体」「自我」「霊我」「生命霊」「霊人」からなるとのことです。
”自我”は人間の大切な構成要素であり、永遠の探求テーマなのかもしれません。
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角度は異なりますが、精神医学者の河合隼雄氏が自我の確立について、下記のように述べています。
【 自我の確立を西洋流に考える事は、「男性の目」によるものである。
「女性の目」を通して見るという場合、自我の在り方からして異なってくるはずである。
そして、この事は必然的に東洋と西洋の対比の問題にまで及んでくるのである。
ノイマンの提出した、西洋近代の自我は—-男女を問わず—-男性の英雄像で表される。 という説に対して、筆者は、日本人の自我は—-男女を問わず—-女性像で表されるのではないかという仮説を既に提出した。 】 ・・・ 河合隼雄
自然科学:医学的自我 > 理性 > 怒り
医学的には、理性は脳の表面を被っている大脳新皮質の働きによるが、本能や欲望、怒りや恐怖等の情動は、大脳新皮質の下にある大脳辺縁系の働きであり、人間は、理性と情動を連動させることが出来る珍しい動物であるらしい。
この脳の前部・前頭葉(前頭連合野)が巨大化し「自我」という機能を有するようになり自己同一性が保持された。 その結果「死」の恐怖も生まれ、それらの恐怖から免れる方法として『 体が滅んでも、精神(魂)は不滅である 』という考え方が生まれ、宗教などの根本思想となった。
そして、人間が発明した極めて優秀な「心の安定装置」でもあると考えるようにもなる。
この「心の安定装置」/ 宗教での「怒り」の捉え方は、正常な判断力を弱め、自我の弱体にも繋がるので、人間の低次な感情表現と考え、キリスト教では、七つの大罪の一つとしています。
仏教でも、怒りを克服しない人間は「地獄界の精神状態へ導く」と考え、死後最も悪い状態に魂が行く事になるとしています。
生物学的には、自我の感じる 「不安」・「恐怖」・「怒り」 は、生理的な現象も含めて 「 本能的欲求やテリトリーへの侵入に対して、思うがままにならないこと / ストレスや威嚇 」 の表現で、 心と身体の「安定とバランス」が崩れた時の「悲鳴」のようにも感じてしまいます。
自我が司る不安・恐怖・怒りなどは、
自分自身と他者との戦いの悲鳴!
社会生活での悲鳴!
・・・ なのです。
《 補足 》
自我の根本にある ” 怒りや死の恐怖 ” を取り除けたら、どんなに素晴らしいことかと思っていました。
研究する人がいたのです、
1940~50年代に、脳の前部に有るとされる怒りや恐怖、精神分裂・躁鬱病等の原因を脳全体から分離させ、消去する研究が行われています。
この研究(ロボトミー研究)で、ポルトガル人医師/エガス・モニスは、ノーベル賞まで取っているが、ロボトミー施術で不安や凶暴性、怒りや恐怖(死の恐怖)、喜びや悲しみ等の情動は希薄になるが、人間としての自我(精神)の喪失が問題しされ、 今でもこの分野の研究は、大きなうねりにはなってはいない。
以前に本で読みましたが、アメリカだかカナダの建設作業員が、事故で頭の前部(前頭連合野)に鉄筋を突き刺し、一命は取りとめたが、理性の利かない全く別の人格(”私が私”で無くなってしまう。)になってしまったという話があります。
このことで解かることは、”怒りや恐怖”等の情動は「自我(私は私!)」と連動しているということになり、取り除くと”私”ではなくなってしまうということにもなりますので、「心の安定装置」などの力を借りて共存するしかないみたいです。
【 シュタイナーの瞑想法 】
人生(日常)において【権威や怒り】から離れた考えに至るために、シュタイナーは【瞑想】や【修練】の大切さを説いています。
< 高次の諸世界の認識>
『 霊的修練と言う実践は、魂の道徳的発展を問題にしない外的であるという思いが容易に生じるかもしれません。 これに対しては、述べた自己意識の克服に必要な道徳的な力は、魂の道徳的な状態がそれにふさわしい段階に達していないのならば、獲得されない、と言わなければなりません。
霊的修練の進歩は、同時に道徳的な進歩が必然的に生じるのでなければ考えられないのです。』
・・・ Rudolf Steiner
又、シュタイナーは、『 霊的修練にどうしても必要なのは、忍耐と根気である。』とも述べています。
覚醒意識における私達が「皮膚/体」の中に収まっていると信じるのはひどい錯覚で、本当は、自分の見ている事物の中に存在しているとシュタイナーは述べています。
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Rudolf Steiner – [ Meditation ]
瞑想/霊的修練
Rudolf Steiner 講演録 / 1914年10月3日・講演第一講(Dornach)
「ある人に向き合う時、私の自我とアストラル体は、その相手の人の中に存在しています。 私が自分の身体をその人に向けなければ、その人を見ることは出来ません。 その人が見えるのは、体のおかげですが、私の自我とアストラル体は、その人の中に存在しています。
このことが分からないのは、大きな錯覚(マーヤー)なのです。以上、物質界での知覚と体験とについて、概念的に説明してみました。 霊界においてはどうでしょうか。
私は、霊界が、物質界の事物や経過に較べて、きわめて流動的であり、変化が激しい、と申しました。
私達は物質界の粗野な事物におけるように、霊界においてもその霊的事象の中に収まって存在していますが、その流動的で精妙な事象を、それが余りに精妙であるために、意識して体験する事が出来ません。 ですから初めは、私達の個性の担い手である通常の自我による瞑想を通してそれを行うのです。」
瞑想はどのようになされるのでしょうか。
「まず、何らかのイメージを取り上げ、そして自分を完全にこのイメージに委ねるのです。
その場合、自我は自分自身を忘れます。つまり通常の昼の意識の自我を抑制します。 自己中心的な昼の意識全てを排除するのです。
私達は、物質界の為に自己中心的な態度をとることに慣れていますから、まず自我そのものを抑制するのです。 そうすれば、肉体、エーテル体で生きる代わりに、もっぱらアストラル体だけで生きることが、次第に出来るようになります。
どうぞこのことに注意して下さい。 私達が瞑想に意識を集中するとき、第一に、自己中心的に生きないことを目標にします。 物質界では、そういうわけにいきませんから、まず、アストラル体で自己中心的な態度を抑えようと努めます。
しかし、アストラル体の体験は、初めは肉体に反映されませんから、意識化されていません。 花束を見る人は、実際に花束の中に収まっていますが、体が花束を映し出すときには、その花束を外にあるものとして見ます。
自我の自己中心的な態度を抑えるときの皆さんのアストラル体は非常に精妙になっていますので、外界の精妙で流動的な事物が知覚できるはずなのですが、意識して知覚しようとするときには、まずその事物を意識に映し出さなければなりません。
ここに、皆さんによく注意して頂かなくてはならないことがあります。 皆さんの中の多くの方は忠実に、真剣に、瞑想に打ち込んでいらっしゃいますから、通常の自己中心的な態度を抑えて、アストラル体の体験が生じるところまで来ています。
しかし、アストラル体の体験を意識化するためには、まず反映が生じなければならないのです。 皆さんの中のかなり大勢の方は、瞑想によって、アストラル体で生じるところまで来ていますが、大切なのは、反映することなのです。
通常の体験内容が身体によって反映されているように、霊界を意識的に知覚しようとするなら、まずアストラル体の体験をエーテル体によって反映させることが必要です。
では、エーテル体によってアストラル体の体験が映し出されるとき、何が生じるのでしょうか? その時に生じるものは、物質界の知覚内容とは全く違います。
物質界では切り取られた花束でさえ、完結しており、同一の姿を留めています。 花束を見て楽しみ、それを家に持ち帰り、花瓶に入れたとしても、花束は花束のままです。
しかし、アストラル体験がエーテル体によって映し出される場合は、全く違っていて、全てが生きており、どんなものも、一瞬たりとも静止していません。 けれども大切なのは、そこに直接映し出されて現れてくるものではないのです。
その場合に大切なのは、それが何かということです。
私がエーテル体によって何かを映し出したときは、花束を見るときのように、それをみて楽しむのではないのです。 皆さん、どうぞ、私の言う事を理解しょうとしてみて下さい。 これについては、これまで何度も同じ比喩を用いてきました。
ここにこう書きました。いくつもの線が引かれています。Bとaとuですね。
けれども、この記号を私が読めなければ「線がこんなふうになっている。 独特の形になっている。」と言うだけです。 私はそこに記されているいるものを、花束のように家に持って帰って、花瓶に入れたりはしません。
そにある「Bau」(建物)を取り上げて、ポケットに入れて家に持って帰る、というようなことが問題なのではありません。 大切なのは外の建物です。そしてその建物の事を「Bau」という記号で表現しているのです。 大切なのは花瓶に挿入する事ではなく、その記号を「読む」ことなのです。」
【 霊的修練の実践 】
ここで重要なのは、表象像を作り出すために使われる思考内容に無感情に取り組んではならないということです。 このような思考内容や感情に没頭した後で、その思考内容や感情を次のように表象像に変化させるのです。
黒い十字架を思い浮かべる。
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この十字架を、根絶された低次の衝動や情熱の象徴とする。
そして、十字架が交差するところに、七つの輝く赤いバラが円形に並んでいるのを思い浮かべます。 これらのバラを、血の象徴、すなわち浄化され純化された情熱や衝動の表現とします。
このような表象像は、前の記憶表象について説明したような方法で、思い浮かべるべきものでなくてはなりません。 こうした表象は、その像に内的に沈潜して没頭するならば、魂を目覚めさせる力を持つのです。
沈潜している間は、他のあらゆる表象を全て排除しようと試みなければなりません。 すでに述べた表象像だけが、可能な限り生き生きと心の中に浮かぶのでなければなりません。
【 霊的修練の進行 】- Rudolf Steiner
二つの魂的な体験が重要です。
その一つの体験は、人が次のように言う事が出来るものです。
物質的な外界が印象として私に与えることのできるすべてのものを無視するようになったとき、 私は、私の内面にあらゆる活動が消え去っている本性を見るのではなく、感覚的な通常の悟性による印象からのみ刺激を得ている間は、まったく知る事のできない世界の中で、自分自身を意識しているある世界を見るのである、と。 魂は、こうした時に、今述べたような魂の本質の核としての新しい存在を、自分自身の内部に生み出したのだ、と感じます。
そして、その存在は、それまでの魂の内部にあったものとはまったく異なる特性を持つ存在なのです。
もう一つの体験は、それまでの自分という存在が自分と並ぶ分身であるかのようになるという体験です。 それまで閉じ込められていたはずの自分が、ある点では、自分と向き合っていると思われるようになります。
いつもは自分自身の本質、自分の「自我」と見なしていたものの外に、時々自分を感じるのです。
一方の自我は、それまでに知られていたものである。他方の自我は新たに生まれた存在として、第一の自我の上位にあります。 そして、第一の自我は、第二の自我に対して一定の独立性を獲得しているように感じられます。
【 霊的修練の到達 】 – Rudolf Steiner
第二の新たに生まれた自我は、霊的世界を知覚するようになります。 この第二の自我において、感覚的物質的世界のための感覚器官と同じような意味を、霊的世界のために持ち物が発達します。
この発達が必要な程度にまで進歩すると、人間は自分自身を新たに生まれた自我として感じるだけではなく、それ以降、物的感覚によって物質世界を知覚するのと同じように、自分の周囲に霊的事実や霊的存在を知覚するようになります。
これが、第三の重要な体験です。
霊的修練のこの段階を完全に成就する為には、人間は、魂の力が強化されるにつれて、通常の魂の活動ではまったく知られていないほどの自己愛、自己意識が現われるということを覚悟しなくてはなりません。
《 参考 》
私事になりますが、瞑想/修練による特異体験を少しだけ記載します。
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2012年の春、習慣的になっていた「薔薇十字」の瞑想・修練を、早朝/夜と気楽な気持ちで行っていました。
ある朝何か違和感を感じ、その後2週間くらいして、自分自身の”原点”的なモノ(もう一人の自分!?)が出現し、次にそのモノが瞑想している自身を、操作(目覚めさせ)し始め、その後は実生活でも現れるようになりました。
いわゆる、ドッペルゲンガー現象 (独: Doppelganger・英: double /上記参照 )のような事が起こったのです。
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この現象の一つの考え方(心理学)としては、前述のフロイトの「精神構造論」にある超自我があたかも独自の存在として見える現象らしいのです。
・・・ 心理学的には、一種の幻聴・幻覚現象になります。
その超自我の分離独立が不完全な状態では”もう一人の自分”がいると、自己の一部が外部に存在するかのように投影され体感します。
その分化がさらに進むと、分離した超自我は、自己と切り離された神的な存在として感じるようになるらしいのです。
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本題に戻りますと、私の体験は、その後にある意味では辛いことや危ないことへと進みました。
”起きたことや現象”は、こと細かく記録に残し、検証も試みていますが、それが ”瞑想や修練の結果”なのか、”私の思い過ごし”或いは”一種の幻聴・幻覚現象”なのかは、今でも結論は出していません。
あったようでもあり、なかったようでもある。
・・・ これが事実です。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
よくよく考えると
我が人生の出来事の全て!
そして、
人生そのものが有ったようでもあり・無かったようでもあります。
あまり前向きな体験ではなかったので、シュタイナーの言うように、私自身の魂の道徳的な状態が、それにふさわしい段階に達していなかったのか、或いは”霊的修練”の遣り方に間違いが有ったのか、”霊的修練”途上に現れる現象なのかを、彼岸に行った時にでも”シュタイナーさん”に聞いてみたいと思っています。
現時点では、この現象体験が本当だったのか、或いは、思い込み・幻想だったのかの判断は付きません。
尚、それ以来・習性になっていたは「薔薇十字」の瞑想・修練は、止めています。
Doppelganger / ドッペルゲンガー境界の守護者
Rudolf Steiner
□ 人間が霊的知覚器官を獲得するところまで規則正しい修練を行うならば、自分自身の姿が最初の印象として自分の前に現れる。 ”自分のドッペルゲンガーを知覚するのです。” —–略—– ドッペルゲンガーは「魂的-霊的世界の前に存在する”境界の守護者”」と呼ぶ事ができます。
□ 人間が「境界の守護者」との出会いなしに霊的-魂的世界に入っていくならば、次々と錯覚に陥るだろう。なぜなら、自分がその世界に持ち込んだものと、その世界に本当に属しているものとを区別することが出来なくなるからです。
□ 超感覚的世界に入っていく時以外に、人間が、この「境界の守護者」に出会うのは、物質的な死を通過するときです。
Rudolf Steiner
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≪かなり省略して記載していますので興味のある方は「高次の諸世界の認識」をお読み下さい。≫
※
精神科学或いは霊科学では、生命を物質の延長として捉えず、その存在を、物質界とは別に見ています。
シュタイナーは、「いかにして高次世界の認識を獲得するか」で以下のようにも述べています。
「正しい霊的修練を積めば、誰もが物質界とは存在のレベルを異にした生命の世界を、知ることができる。」
その、正しい霊的修練を行うと、自らの「境界の守護者」との出会いがあり、その守護者から「霊的-魂的世界」への正しい導入案内がされるようです。
≪ 参考 ≫
ドッペルゲンガー現象 (独: Doppelganger・英: double)/ 自己像幻視現象(オートスコピー)
自分と同じ姿を鏡ではなく、他者として見える現象で、幻覚症状にこのような事がおこるのも知られている。現代医学では、脳の一部(精神)の異常状態で起こる現象とみている。
又、”臨死体験”現象で、体外離脱して上から自分を見ている姿が、類似するものの一つでもあるようで、この現象には非常に興味があります。
”境界の守護者”とは、もう一人の自分 !?
シュタイナーは、そうは叙述していませんが、私には、神秘学的にこの状態(現世)で見る自己像は、肉体(物質体)から遊離した「アストラル体」ではないかと思えてならない?
この現象は、昔から伝説や民話によく出てくる、対面から顔を隠した人がやってきて、すれ違いざまに顔を確認すると、なんと自分の顔だった、という類の話です。
日本では芥川龍之介の小説があり、欧米でもこれをテーマにした文学作品はかなり多い。
その他にシューベルトの「白鳥の歌」の中の「ドッペルゲンガー」(ハイネ詩)はこの現象を歌い、ゲーテは「詩と真実」で、失恋時の傷心状態でのドッペルゲンガー体験を述べています。
別録:シュタイナー特集
ルドルフ・シュタイナー / 人智学☆精神科学
END