” シリーズ:八ヶ岳思考 ”

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精神科学とシュタイナーの人生



Welcome

ルドルフ シュタイナーと人智学徒
シュタイナーと人智学徒


Rudolf Steiner
Geisteswissenschaft/Anthroposophie
( 精神科学/人智学 )



INDEX

□ 精神科学の学び
□ 精神科学 = 霊科学
  Geisteswissenschaft
□ 別録:精神科学特集の案内
  ☆ ☆ ☆
■ 人間シュタイナーの人生

□ シュタイナーの遺言書
□ シュタイナーの詩


天の川銀河とパラボラアンテナ
天の川銀河とパラボラアンテナ


■ 精神科学の学び

万物! ・・・
可視できる世界だけが全てではないので、物事の根源的なことを探ろうとするときには、思考に自由性を持たせることが必要だと思っています。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

社会通念の視点を変えてみる。
地球を内包する全体/大きな視点からの思考!

シュタイナー
精神科学
シュタイナーの見つめる先にあるもの


例えば、・・・
地動説と天動説

コペルニクス時代の”地動説と天動説”とは視点/論点が異なりますが、科学が進化した現代ですので大きく宇宙やその包むものを考え、物理的(地球的)な”天・地動説”から抜け出せば、視点の位置によっては”地動説”になったり”天動説・全動説・無動説”になったりします。

ただ、理解(認識)する ”場” の違いという事にもなります。 

そこで、問題意識を”天”が動いているか、”地”が動いているかではなく、現代人の”視覚、聴覚、思考(認識)”の硬直化に向けるべきなんです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

自然科学と精神科学は、思考する視点が異なるだけですが、視点を変えても実態が見えるとは限りません。

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実態は、どの方面から探っても蜃気楼のようなもので、存在しないのかも知れません。

・・・ と、思っていますが、

視点を変えてみることにより、今生での”より良き過ごし方/道しるべ探し”の糧にはなります。

精神科学とシュタイナーの人生
インド/精神生活
サドゥの見つめる先にあるもの


混沌としている現在・社会!
社会嫌悪、人間不信 そして、物質文明!

そろそろモノの見方・視点を変えること/融合することも必要ではないかと思っています。

自然科学と精神科学が融合する時代が来るのを願望している特集です。



ルドルフ シュタイナー

ルドルフシュタイナー


■ ルドルフシュタイナー

精神科学 = 霊科学
Geisteswissenschaft

シュタイナーの言う ”Geist” は、人間の肉体に宿った「精神」や、 時代や民族が共有する「精神」ばかりでなく、真理としての「精神」に近づくために「霊・魂」にも思考が及んでいます。

その踏み込みにより、人間の内部に存在している健全な”予感”を導き出し、現代人の迷信や勘違いしている霊的・魂的思考を、正しく拡張し働く”魂の活動(思考)”に戻そうとしています。

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そして、 精神・生命・肉体に潜む超感覚的認識力を、現代人の智恵により変化対応(時代に即した)させ、新たな(正しい)認識へと導く手法(修練)の ”科学/学問 ” だとしています。

又、自然科学の進歩と物質文明の流れがもつ必然には、シュタイナー自身は異論は無かったようですが、その結果として間違った豊かさの状況が、人間のもつ本来の力を歪めていくことに警鐘を鳴らしています。

その警鐘的講演は5965回にもなり、著作は30冊を越えています。
分野は、教育・農業・医学・建築など広範囲にわたります。

尚、精神科学≒超感覚的認識/霊的認識のことで、シュタイナー思想/アントロポゾフィー・人智学とは、この精神科学/神秘学を基にした思想です。

精神科学は、オカルティズム/オキュルティスム(霊学、神秘学)ともよばれますが、当然、”カルト思想”とは違います。

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又、日本では”精神”と”霊”では全く異なる意味を持っていますが、欧米では同類的に考えています。

ですから、
日本では、ドイツ語のGeistは”精神”或いは”霊”と訳され、欧米の霊と日本の霊とでは、意味合いが異なりますので注意が必要です。
( 英語の「Spirit」も同様です )

そんな訳で、
現在の日本社会では、”霊科学”というと誤解されやすいので、 ”精神科学”という言葉を使っていますが、シュタイナー思想は文字通り、 Geist=”霊/神秘”が基軸思想ですので、巷間・私とは”異なる角度/方向” で解釈している人々がいるのも事実です。

シュタイナーと人智学徒
シュタイナーと人智学徒

シュタイナー

■ 神秘学は”科学”です。

自分達神秘学者は、自然科学の価値を誤って判断するつもりはなく、かえって自然科学者以上にその価値を認めようとしています。

・・・ Rudolf Steiner



■ 別録:精神科学の案内

シュタイナー思想/精神科学(Geisteswissenschaft) を詳しく知りたい方は、特集を組んでいますので、下記文字(シュタイナー/精神科学概論)をクリックしてみて下さい。

☆ ☆ ☆ ☆

特集は、
人には、信じるという分野の宗教は無くてはならないものだと思っています。
しかし、科学には、
信じるという縛りがあってはなりません。
更に、
心が拘束されてもいけません。

☆ ☆ ☆

そのような考えの元に、
自然科学と精神科学の融合
そして、
何故、学ぶのか?
等などの思考特集です。


    ▼ ▼ ▼

■ シュタイナー/精神科学概論

インド/バラナシ:ガンガ(ガンジス河)夜明け




” 世間虚仮の変人 ” が覗いた
人間・シュタイナーの生涯


■ シュタイナーの年譜・年表

このシュタイナーの年譜・年表は、世間虚仮を心情にした生き方が不器用な人間(筆者)が四十数年間、ヒッソリと学び纏めた資料を基にして作りました。

そして、アリキタリの教科書的なものにはしたくありませんでしたので、科学/学問として捉えるという視点から、俯瞰的に・人間的なシュタイナーの一面・人生/生涯(生き方)を覗いてみた私の個人的な視点で作成しています。

”明けない夜はない”
インド/バラナシ:ガンガ(ガンジス河)夜明け




Rudolf Steiner
Geisteswissenschaft/Anthroposophie
( 精神科学/人智学 )

★ ★ ★

人間:ルドルフ・シュタイナー
の生涯  *  年譜・年表


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

【 Rudolf-Steiner 】
1861年2月27日誕生

シュタイナー年表/ドルナッハ


当時のオーストリアの国境近くの町クラリエヴェク(当時のオーストリア帝国 から ユーゴスラヴィア > 現在はクロアチア、ボスニアなどの国に分裂)にて、オーストリア帝国南部鉄道の公務員(薄給の鉄道職員)であるヨーゼフ・シュタイナー(敬虔なカソリック教徒の両親)の元に第一子として誕生。

両親は前年5月16日に結婚していますから、現在で言うハネムーンベービーです。
そして、誕生の二日後には、カソリック教会で洗礼を受けています。
・・・ 後には、妹と弟が誕生します。

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前年の1860年
Arthur Schopenhauer 没

1861年 ~ 1865年
アメリカ合衆国/南北戦争

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【 1862年 ~ 子供時代 】

シュタイナー年表/シュタイナーと弟のグスタフ
弟と共に

彼が一歳半の時にミュードリングへ転居するものの僅か半年後の1863年の初めには再びボットシャッハ(何れも現在のオーストリア領)へ転居し、二歳から八歳までその地で生活しています。

又、妹(レオポルディーネ)と弟(グスタフ)が生まれたのもこの土地です(家族は合計五人)。

彼の人生の描写は、美しい自然と共に始まったようで、後年・彼は、自然豊かなアルプスの麓(ボットシャッハ)で幼年時代を過ごした事を、大きな喜びと感謝をもって 思い出しています。

そして、シュタイナーの家族が ”森” との生活を切り離せなかったように、シュタイナー自身も、幼年時代~成人してからも、「森」を歩く事が・趣味/生きがい・ストレス解消になったと述べています。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 森の写真3-1024x439.jpg
八ヶ岳の森


1865年4月15日
アメリカ大統領:リンカーン暗殺される



【 1872年~1878年 】
 青春時代

シュタイナー年表/シュタイナーの青春期
シュタイナー
青春時代


ウィーン新市街の実業学校に、11歳から入学。

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この学校では、数学(幾何学)に興味をもつが、都会での生活には、苦難を感じ、自分が森や野原の生活と結びついているのを知れば知るほど、都会のように 目の回る忙しさに追われる外的世界では、自分は馴染めないと 思い始める。

この時代でも「都会」は「都会」!シュタイナーが、現在の東京やニューヨークなどを見たら「気絶」するでしょう!

シュタイナー年表/Felix Koguzki
Felix Koguzki


この頃の彼の孤独な気持ちを救ってくれた出来事が有名です。
「汽車の中で、隣村の薬草売りフェリックス・コグツキーと出会ったことです。」

彼は、植物の背後にはたらく精霊たちについての豊かな(不思議な彼・独特の)知識があり、シュタイナーの良き理解者にもなっています。
コグツキー: 結構厳つい顔をしていますね!

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【 1879年~1890年 】
 青春~壮年期

シュタイナー年表/シュタイナーの青春時代
青春時代のシュタイナー


ウィーンの工科大学の入学試験に合格後、入学までの間に、教科書を売り払い、哲学書を買いあさり 哲学に没頭しています。

又、この頃、幼年時代から体験(透視・霊的体験)していた事を、話し始めています。

今まで公言出来なかった事は、 この時代の社会状況からすれば 家族全てが、社会的な死に 繋がる事を理解していたからでしょう。

そして 運命は、この学校で シュタイナーを、独文学者のカール・ユリウス・シュレーアー(ゲーテ研究者)と引き合わせる。

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1882年
Charles Robert Darwin 没

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【 1886年 】
 シュタイナー25歳

カール・ユリウス・シュレーアーとの出会いにより
シュタイナー最初の書籍「ゲーテ的世界観の認識論」を執筆し、ある意味では、後に自らの思考論理を、Geist(精神,霊)の Wissenschaft(科学)=Geisteswissenschaft (精神科学) > 心霊主義者的思考から「精神的諸現象の経験科学」へと導く”エポックポイント”に立つ訳です。

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1889年 Adolf Hitler 誕生

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【 1891年~1898年 】
 壮年期

シュタイナー年表/ワイマール時代のシュタイナー
ワイマール時代のシュタイナー

この頃は、ニーチェやダーウィンの進化論を強力に支持したへッケルとも交流があったようですが、決して楽しい時代では なかったようです。 私が思うには、考え方の違いと言うよりも、人間的に合わなかったのかも知れません。

又、この頃、将来の伴侶アンナと知り合います。



いよいよ、この時期から、夢・死・人類や宇宙の霊的進化、行法などを説きはじめ、こうした精神科学を究めていく流れが始まります。

又、この時期は、シュタイナーが、インド系の神智学ではなく、唯物論的な立場からは知ることのできない霊的世界を直接探究する学問としての人智学的理念を重ねていた時期です。

1883~1897年
ゲーテ自然科学論集の編纂という仕事や自由の可能性をダイナミックに追究し、ニーチェの影響をも受けて書いた哲学論文の 「 自由の哲学 ( Die Philosophie der Freiheit ) 」 に代表される哲学的思考の構築に、時間を費している時期。

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この頃のシュタイナーは、上記「自由の哲学」や「ニーチェ論」を書いています。

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【 1898年~1900年 】
 神秘学開花期

シュタイナー年表/シュタイナーの最初の妻・アンナ
Anna-Eunike

(写真) Anna-Eunike (1853-1911)

1898年/8歳上のオイニケ未亡人・アンナ(45才)と結婚。
(アンナには、四人の娘と一人の息子がいた) 
その翌年 労働者養成学校の教師に赴任。(1899年~1905年勤務)

シュタイナーは、37歳の初婚で 5人の子供の親に成った訳です。
アンナの子供達は、どのように成長したのでしょうか?

私は、人智学と共にアンナ・シュタイナーとその家族にも興味が湧きましたが、 残念ながら アンナのデーターが余りに少ないので、このリポートには、記載する事が出来ませんでした!

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シュタイナー年表/40代のシュタイナー



40代 / シュタイナー思想の開花期40歳の頃を境に、シュタイナーの神智学関連の活動が活発になり、神智学協会の指導者的立場に着いています。

しかし、後年(1913年)ドイツ神智学協会を離れていくことになります。

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この時期に、「神智学」「アカシャ年代記」「神秘学概論」などを発表し、講演活動にも力を入れはじめ、種々の会で講演をするようになります。

この頃のシュタイナーの活動の勢いは凄かったようで、彼の驚くべき変化に今までの友人が離れ、アンナとの関係も、破綻していきます。

アンナは、そのようなシュタイナーの「変わりよう」に驚き、違和感すら感じ始めます。

そして、シュタイナーの思想/教育/医学/農業のすべてが、40歳以降から始まった、この時期の講演及び活動で発表されていき、人智学 ・ アントロポゾフィーの礎が出来ていきます。

ルドルフシュタイナーと人智学徒
ルドルフシュタイナーと仲間達


【 1900年~1911年 】
 神秘学活動期

【1900年】

ベルリンの神智学文庫で神智学協会(die Theosophische Gesellschaft)会員を前にして行った講演を契機に、超感覚的に捉えた知見を次々に発表し始める。

この講演は、1回目が、1900年9月22日に、ニーチェ論
2回目は、1900年9月29日に、1899年に発表した論文「ゲーテの秘密の啓示(Goethes geheime Offenbarung)」を題材にして、人前で初めて秘儀的内容を語った、記念すべき講演。

この講演で、自らの思考方法は 精神世界(霊的世界)をただ崇めるだけの宗教や霊媒的なプロセスを介しての心霊主義者のヴィジョンとは異なり、精神世界のありのままを認識するという意味で、科学(Wissenschaft)なのだと述べている。

そして、Geist(精神,霊)の Wissenschaft(科学)という意味で Geisteswissenschaft (精神科学)と述べ、 精神的諸現象の経験科学として確立させていく。

又、シュタイナーの言う ”自らの思考基軸にある / Geist(精神,霊)”は、人間の肉体に宿った「精神」や時代や民族が共有する「精神」(宗教学者の鈴木大拙が言う「霊性」に近いような気がします。)を含む、根源的な「霊」を表しているようです。

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1900年
Friedrich Wilhelm Nietzsche 没

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【 1902年~1910年 】
 神智学協会期
 精神科学の主著作成期

神智学協会開設者
ヘレナ・P
ブラヴァツキー
神智学協会開設者
ヘレナ・P
ブラヴァツキー


【1902年10月】

シュタイナーは、インドの神智学者アニー・ベサント(Annie Besant1847~1933年)の協力を得てベルリンに結成された神智学協会ドイツ支部の事務局長になっている。

その頃から神智学(Theosophie)や薔薇十字(Rosenkreuzer)の真なる道を探っている。

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【1904年】
「神智学(Theosophie)」、
「いかにして高次世界の認識を獲得するか(Wie erlangt man Erkenntnisse der hoeheren Welten)」
などを著作

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【1904~1905年】
「アーカーシャ年代記(Aus der Akasha-Chronik)」などを著作

【1905年-1917年】
ロシア革命/ロマノフ朝が崩壊し、世界初の社会主義国家誕生

【1907年】
初の教育関係の論文「精神科学から見た子供の教育(Die Erziehung des Kindes vom Gesichtspunkte der Geisteswissenschaft)」を雑誌ルツィファー・グノーシス誌(Luzifer-Gnosis)に発表している。

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【1907年2月19日】
最初の遺言書(手書き)を作り残している。
≪下記に全文記載≫

【1910年7月4日】
遺言書を正式な形にして再度作り直している。
≪下記に全文記載≫

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【1910年】
精神科学の主著「神秘学概論(Die Geheimwissenschaft im Umriss)」を著作し、夢・死・人類や宇宙の霊的進化・行法などを説いている。

シュタイナー年表/シュタイナー・メモスケッチ


【1911年 Anna死~1913年】

1911年3月19日
妻・アンナ ・ シュタイナー 没す。
享年 58才

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《 Anna と Steiner の結婚は? 》

結婚後・数年で、”Anna と Steiner” の思考・思想・生き方の違い・隔たりが現れたようです。
それは、Annaの生前且つマリーとの結婚前(1914年/結婚)の1907年2月19日に書かれた”Steiner” の遺言書でも分かります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

手書き遺言書の一部 (巻末に全文記載)
1907年2月19日/ベルリン
アンナが生存中に書かれた遺言書

「 私の死後、マリー・フォン・ジーフェルス嬢が私の唯一の相続人となり、私の名の下に決定する権利を持つ。
彼女が決定することはすべて、事実上、私の名においてなされることになる。私の所有物はすべて彼女のものとなり、すべてのことは彼女の命によってなされる。 特に、彼女には、ホルンにいる私の両親と弟と妹をよろしく頼みたい。 」

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《 註 》

※ Anna は、・・・
Steiner と結婚して幸せだったのでしょうか?
※ Annaの子供たちは、・・・
どのような人生を送ったのでしょうか?

シュタイナーと仲間達
シュタイナーと人智学徒


【 1908年~1912年 】
人智学協会設立期

ヨハネ福音書(1908年)、ルカ福音書(1909年)、マタイ福音書(1910年)、マルコ福音書(1912年)などと神智学的・秘教的キリスト論を展開し、各地で講演するに至る。
シュタイナーは、キリスト・イエスに対して下記のように述べています。
「西暦元年、二人の少年イエスが生まれた。一人はダビデ家・ナタンの末裔であり、他の一人はダビデ家・ソロモンの末裔である。二人の子供は、全く同じではないが、ほぼ時を同じくして生まれた。  前者はルカ伝の、後者はマタイ伝の伝える子供イエスである。」
この叙述について、キリスト・イエスが二人いたのだと考える方もいますが、私は、福音史家(ルカとマタイ)の単なる見解の違いによるものではないかと思っています。

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【1913年1月】
アニー・べサントが会長をしていた神智学協会本部は、おかしな方に向かい、ジッドゥ・クリシュナムルティ(生誕:インド)をメシアの再来であるとする一派が力を増し、これをドイツ支部にも強要しようとして、シュタイナーの反対にあい、シュタイナーのいるドイツ支部が本部からの除名されたとされている。

シュタイナー年表/アニー・ベサント
Annie Besant

しかし、このころ神智学協会の会長であったアニー・ベサントが、神智学の「黄色いショール団」「紫の教団」を支える団体として、敬愛し 且つ、メシアの再来とするジッドゥ・クリシュナムルティを長とする「東方の星教団」を設立したことにドイツ神智学協会のルドルフ・シュタイナーなどが反発して協会を離れたというのが事実らしい。

シュタイナー年表/Jiddu Krishnamurti
Jiddu Krishnamurti 


ジッドゥ・クリシュナムルティ は、その後 ベサントに反旗を翻し、「永遠なる目的」=「永遠なる幸福」を得るという信念をもって、自分自身を解放するとの発言をしているが、それは少年時代から神智学協会で育てられ、束縛され、ある意味で利用されてきたことへの反旗でもあった。

その彼は、束縛は自己を見失わせ、自己を見失えば目的への道を見出すことができないからであると述べています。

そして、「東方の星教団」を解散し、クリシュナムルティは、1930年に神智学協会を離れている。

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【1913年年2月3日】

神智学協会を離脱したシュタイナーは、最初の人智学協会(die Anthroposophische Gesellschaft)の総会を開き、この日から独自の人智学の道を歩み出し、その会員数は、3000人を超えていた。

因みに、この時期の人智学協会は単なる事務局的な存在でしたが、1923年のクリスマス・イブに行われたクリスマス会議以降は、人智学運動理念の実態的組織である一般人智学協会(die Allgemeine Anthroposophische Gesellschaft) へと移行していきます。 ≪下記の1923年12月24日の欄にも記載≫

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【1913年8月28目】

運動音楽芸術オイリュトミー(Eurhythmie)の最初の上演が、ミュンヘンで行われる。

【1913年】

1913年9月20日 ゲーテアヌム建設開始
スイス-バーゼル近郊にあるドルナハ(Dornach)に人智学活動の中心となるべき建物の建築が、シュタイナーの構想に基づいて始まる。



【1914年~1919年 】
 1914年 Marieと結婚

シュタイナー年表/50代のシュタイナー


50代半ばのシュタイナー1914年12月24日 マリー・フォン・ジーフェルズと再婚
アンナの死後3年で再婚しています。シュタイナー53歳!

この年表を見て解かるとおり、アンナの死後からマリー・フォン・ジーフェルズとの再婚にかけての間に、ゲーテアヌムの計画・建設に取り掛かっています。

このような事から考えても、シュタイナーの「思想活動」の中心的な位置にマリーがいた事が分かります。

私が読んだ資料では、マリー・フォン・ジーフェルズはアンナとは異なり かなり シュタイナー(人智学:オイリュトミー)の前面に出た女性のような気がしていますが、シュタイナーの活動を、心身ともにバックアップした女性である事に間違いありません。

シュタイナー年表/シュタイナーの二度目の妻・マリー


(写真) Marie-Steiner(1867-1948)

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1914年 第一次世界大戦勃発

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【1915年3月18日】
ルドルフ・シュタイナーとマリー・フォン・ジーフェルスとの婚姻後、公証人の立ち会いの下に、各々で遺言書が交わされた。
≪下記に詳細記載≫

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【1918年】

建設中のドルナッハの建物が、ゲーテアヌム(Goetheanum)と名づけられる。

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【1919年】
Ernst Heinrich Philipp August Haeckel
(ヘッケル) 没

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【1919年3月】

ドイツ革命と第一次世界大戦の敗戦で、混乱が続くドイツの国民に向けて、「ドイツ国民とその文化界に告ぐ ( An das deutsche Volk und an die Kulturwelt ) 」 というアピールを、社会三分節化論 ( die Dreigliederung des sozialen Organismus ) として出している。

社会三分節化論は当時、マルキシズムに対抗する一つの思想として一部では注目されるが、その後長いこと顧みられずにいた。

しかし、1970年代後半になってからようやく再び検討され出し、1980年代には環境保護をうたった西ドイツ緑の党の脱マルキシズムの理念の一翼を担う働きをしている。

日本では、東京裁判での奇行で有名な”右翼思想家で大東亜戦争の理論的指導者”大川周明が、社会三分節化論を三重国家論として翻訳している。

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≪参考≫ 社会三分節化論
( die Dreigliederung des sozialen Organismus )

人間の社会活動を、「精神の領域」、「経済の領域」、「法の領域」の三種に分け、 そのそれぞれが、「精神生活では自由」を、「経済生活では友愛」を、「法的生活では平等」を、いしずえとして、各種に独自性を持たせながら、全体を一つと考える社会三分節化論(die Dreigliederung des sozialen Organismus)をうたい、1919年4月には【社会問題の核心】を刊行しています。

当時、この社会三分節化論は、マルキシズムに対抗する一つの思想と考えられいます。

又、シュタイナーのこの考え方は、物質世界と霊的世界が表裏一体であるという立場からの、マルキシズム唯物観批判、社会主義批判の論調とも受け止められています。

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【1919年8月21日~9月6日】
 シュタイナー学校 設立

最初のシュタイナー学校(Waldorf・schule)の教師となる人達(12人)を前に連続講演をて行っている。

※  12人の教師となるべき人たちに行った連続講演では、シュタイナー教育の基本知識である、
1 ) 教育の基礎としての一般人間学 (Al1gemeine Menschenkunde a1s Grundlage der Paedagogik)
2 ) 教育芸術-方法論と教授法 (Erziehungskunst,Methodisch-Didaktisches)
3 ) 教育芸術-演習とカリキュラム(Erziehungskunst,Seminarbesprechungen und Lehrplanvortraege) の三つを中心とし、オイリュトミーや音楽教育についても、語られている。

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※  シュタイナーは、原稿なしのこれらの講演を、午前中は人間理解のための「一般人間学」、午後は教育の実際面を説いた「教育芸術-方法論と教授法」、 夜は参加者の発表も交えた「教育芸術-演習とカリキュラム」として一日のうちに行い、日曜日だけ休んで、二週間ぶっ通しで続けるという、超人的なスケジュールで行ったようだ。

ルドルフ シュタイナー ☆ 精神科学・基礎編/シュタイナーと仲間達
シュタイナーと仲間達


【1919年9月7日】
シュタイナー学校開校

シュタイナー年表/Emil Molt
Emil Molt
( 1876 – 1936 )


1919年4月~9月にヴァルドルフ・アストリア (Waldorf-Astoria) タバコ工場で講演を続け、同年9月7日にタバコ会社を経営するエミール・モルト(Emil Molt)の援助を受け、最初のシュタイナー学校が開校されることになります。

エミール・モルトは、シュタイナーの能力を認め、資金面等経済的にシュタイナーをバックアップしています。これが現在、多くのシュタイナー学校が、「Waldorf」の名称をつける所以です。

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【1919年10月】

「社会的精神と社会主義的迷信(Sozialer Geist und soialistischer Aberglaube)」という小論で、精神を経済の関数とする唯物主義の迷信を批判する。

【 1913 ~ 1920 】
 第一ゲーテアヌム建設

第一ゲーテアヌム
第一ゲーテアヌム

Height : 34m / Width : 75m / Length : 85m
≪木造(基壇のみRC造)≫

正面から見ると「ゾウガメ」のようにも見えますが、その甲羅部分の屋根の葺き方も色も美しい。 大きな写真で表示できなくて残念ですが、本当に美しく感じます。

窓周りは遣りすぎかなと思う位に飾っていますがいやらしくなく、遠景になるとシンプルに見えるのが不思議です。台座は別として、その他全てが木造で出来ています。

大小のドーム屋根のバランス、庇の曲線、窓の取り方、全体のフォルム、幾何学形態による平面計画の面白さ、誰が放火して消滅させたのか?全く残念です。

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【1920年10月】

ゲーテアヌムが、「精神科学のための自由大学(Freie Hochschule fuer Geisteswissenschaft)」とも呼ばれるようになる。

第一ゲーテアヌム
第一ゲーテアヌム


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シュタイナー年表/Ita Wegman
Ita Wegman

オランダ人医師イタ・ベークマンらの協力を得てアントロポゾフィー医学を構想する。

一般的には、誤解されやすいのですが、シュタイナーが考えるアントロポゾフィー医学は、自然科学的・アカデミックな医学を否定するものではなく、シュタイナーのアントロポゾフィー(人智学)の理論と自然科学的・アカデミックな医学の融合を試みています。



【 1922年 】
第一ゲーテアヌム焼失

1922年12月31日
第一ゲーテアヌムが、放火により焼失

シュタイナー年表/第一ゲーテアヌムの炎上

シュタイナー年表/第一ゲーテアヌムの炎上



【1923年8月】

シュタイナーはイギリス北部のヨークシャーで「現代の精神生活と教育(Gegenwaertiges Geistesleben und Erziehung)」という講演を行ている。その第2講演で次のように述べている。

「こんにち一般に、文明の諸状況が急激に変化している様子が感じられます。
又、社会生活を営むさいの各種設備に、目新しいもの・もっと多くのものをと考えてしまう傾向も感じられます。」 何か現在の世界状況を述べているようにも感じる。

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シュタイナーは、文明の急激な変化に伴う状況が、人の心の暖かみを奪い、気持のふくらみを押しつぶしていく機械的な働きや考え方の背後にある一つの力を見るようになります。

そして、この力を彼はアーリマン(Ahriman)という名をつけました。 人の心から潤いをなくし、血の通わない冷淡な考え方や生命が感じられない生活環境を作り出すこの力を一方の極とすると、もう一方の極には、人を陶酔させ、血を沸き立たせる力をおくことができると考え、もう一つの力をルツィファー/ルティフェル(Luzi-fer)と名づけています。

この力は、人は夢中になるあまり我を忘れて、ふだんなら見えていることが目に入らなくなることがあり、このような陶酔や熱中の背後に働く力です。

シュタイナーの ”社会の謎を内側から見る (Die innere Aspekt des sozia1en Raetsels) ”の叙述によると、「 アーリマンは、人間を味気なく散文的かつ通俗的な者にし、血肉を失わしめ,唯物主義の迷信に導く力のことである。

これに対しルツィファーは、人間の内にあらゆる熱狂的な興奮や誤った神秘主義的傾向を呼び起こし、人間を舞い上らせようとしたり、人間の血を生理学的に沸き立たせ、無我夢中にさせようとしたりするものすべてに働いている力のことである。」と述べられています。

【1923年12月24日】
この日に行われたクリスマス会議にて、人智学協会が単なる事務局から、人智学運動の理念を体現した組織としての一般人智学協会 ( die Allgemeine Anthroposophische Gesellschaft ) に変っていく。

【1924年1月1日】
上記クリスマス会議の最後の日に、食事に毒が盛られる事件。

【1924年6月】
人智学思想に基づく「農業」講座が行われた。



シュタイナー年表/晩年のシュタイナー
晩年のシュタイナー

クリスマス会議の最後の日/1924年1月1日の夜に、毒を盛られたという説が有力で、俗に言う「毒殺未遂」と言う事になります。

事件から、1年4ヶ月後の死なので毒殺とは言えませんが、この事が死を早めたのは事実のようです。誰が毒を盛ったかは、不明です。

晩年、第一ゲーテアヌムの放火事件や毒を盛られた事など不幸な出来事が続くが、めげずに精力的に活動している事には驚く。

放火とか毒殺などと聞くと「恨み」や「怨恨」を連想してしまいます。
真実は分かりませんが、ヒットラーの部下による放火や毒殺未遂・ドイツの駅構内での暗殺未遂説が有ります。

その説によると、駅構内の暗殺未遂の時には、シュタイナーはその事を予知していましたが、周囲の人の停止を振り切り”その場”に行ったそうです。当然、その時には難を逃れましたが、・・・・

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毒殺未遂・ドイツの駅構内での暗殺未遂!
第一ゲーテアヌムの放火!


敢えて注釈を入れるならば、ヒットラーと結びつけると話としては纏まりがよくなりますが、私には、シュタイナー思想は、理解の仕方によっては人種差別・偏見(特定人種優位説等)と取る方もいるように思えます。
誤解や理解の仕方での勘違いだとは思いますが、
・・・ その様な事も関係しているのではないでしょうか?

人間・シュタイナー!
人生は苦なり : 仏陀の言ではありませんが、結構人間的なドロドロしたものもあったのでしょう?
こんだけのことをやり遂げた方ですので、敵や反発する勢力がない訳がない。
マザーテレサでさえ一部のインド人には憎まれていたし、ガンジーは暗殺までされている。

・・・ 多分・憎む人もいたのではないか?
と、思っています。

愛別離苦・喜怒哀楽・そして、思想的な誤解や生活に纏わることなどなど、今と成ってはどうでも良い事なのでしょうが、シュタイナー思想と共に私の興味は、その方向にも向いてしまいます。

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シュタイナー死去

シュタイナー年表/シュタイナーの墓


※ 1925年3月30日、シュタイナー没す。享年 64才

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シュタイナーの死後、一般人智学協会は、1935年から1945年までナチスによって禁止された中断期間はありましたが、1990年4月の時点でその会員数は、ドイツを中心に4万7千人にのぼっている。



【 1925 ~ 1928 】
第二ゲーテアヌム 建設

第二ゲーテアヌム
第二ゲーテアヌム

Height : 37m / Width : 85m / Length : 91m
≪RC造≫

1922年12月31日に第一ゲーテアヌムが、放火により焼失したのち直ちに構想・設計を練りシュタイナーが死亡した年の1925年に建設が始まり、3年後の1928年に建物は完成しています。

一般的には同じ建築家が設計したものには、同一の脈絡があり、どんなに違うデザインにしてもそこには、その人の設計手法が流れ同一人物が設計したものだと読み取れるのだが、”平面形態”は別にしてアクセス周辺のデザイン手法以外には、第一と第二ゲーテアヌムにはそれがない。

シュタイナーは、焼失した第一ゲーテアヌムとは全く違うもの。
放火されても燃えない建物 / 頑強な建物を念頭に、一から造形を考え直したとしか思えない。 ま~、それにしても凄い造形力ですね。 

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1933年 ドイツでヒトラー政権誕生
1939年 第二次世界大戦勃発
1945年 Adolf Hitler 没

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【1948年 10月27日】

妻・マリー・シュタイナー 没す。
享年 81才

シュタイナー年表/シュタイナーの二度目の妻・マリー
Marie-Steiner(1867-1948)


マリー・シュタイナーはルドルフ・シュタイナーの2回目伴侶で、女優でした。
ルドルフ・シュタイナーがオカルティズムに関わる仕事をする出発点にいて、オイリュトミー、言語形成など舞台芸術の発達の出発点にも彼女がいた。

又、シュタイナーの著作はマリーが設立した出版社から出され、シュタイナーの講義録が彼の死後に世に出るのは彼女によることが大きい。

ルドルフは、厄介な仕事はしばしばマリー・シュタイナーに任せ、時々 彼は冗談でマリー・シュタイナーのことを「掃除婦」と呼んだり、「彼女は私のよく役に立つほうきだ」と言ったこともあるらしい。

しかし、ルドルフ・シュタイナーは絶対的にマリー・シュタイナーを信頼していました。 公表されている初めての遺言は、まだマリー・フォン・ジーフェルスの名前の時で、「私の死後、マリー・フォン・ジーフェルス嬢が私の名の下に決定する権限を持つことを定める」という言葉で始まり、「マリー・フォン・ジーフェルス自身常に私とともにあり、二人の結束は恒久不滅のものである」という言葉を残しています。

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マリー・シュタイナーが、私には理解しにくいオイリュトミー のことを述べていますので、紹介いたします。

『 オイリュトミーすると言う事は、動作によって歌う事です。
それは歌であって、舞踏でも、芝居でもないのです。
まさに歌う事なのです。 』




■ シュタイナーの遺言書

シュタイナー年表/ Wooden & Plaster Sculpture by Rudolf Steiner - 「The Representative of Mankind」


マリー・フォン・ジーフェルスへのシュタイナーの遺言書
( 1911年3月19日、前妻 アンナ ・ シュタイナー 没 )


※ 最初の遺言書を作成〈手書き〉

1907年2月19日/ベルリン
私の死後、マリー・フォン・ジーフェルス嬢が私の唯一の相続人となり、私の名の下に決定する権利を持つ。

彼女が決定することはすべて、事実上、私の名においてなされることになる。私の所有物はすべて彼女のものとなり、すべてのことは彼女の命によってなされる。

特に、彼女には、ホルンにいる私の両親と弟と妹をよろしく頼みたい。彼女には、私の死を、謎と見なすのではなく、高次の諸力の意志に応じたものと捕えてほしい。

このような事は、まだ理解することができないとしても、尊重しなければならない状況の中で生じる。
マリー・フォン・ジーフェルスは常に私と共にあるだろう。私達の結び付きはいつまでも断ち切られることはない。

Rudolf-Steiner

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※ 正式な形での遺言書を作成

1910年7月4日/ベルリン、モッツ通り17番
ここに署名者として、私の死後以下のことを私の遺言の一部と見なすことを宣言する。

【1】.私の死後、書類、資料、手紙は元よりすべての私所有の私信は、モッツ通り17番のマリー・フォン・ジーフェルス嬢が所有することになる。
彼女だけが、私の意志に沿って、私が現在所有している書類すべては元より、前述の文書を処理する決定をする。

【2】.マリー・フォン・ジーフェルス嬢が、私の死後、私の著作に関する遺産の総管理者となる。すなわち、彼女が、私の原稿や講義の出版は元より、著作の新版についての決定をする。

Rudolf-Steiner

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※ 公証人の立ち会いでの遺言書

1915年3月18日/ベルリン
ルドルフ・シュタイナーとマリー・フォン・ジーフェルスとの婚姻後、公証人の立ち会いの下で各々に遺言書が交わされた。

それには、この前(1910年7月4日作成)のものに次の言葉が足されている。
「どちらか一方が死んだ場合、残された者が唯一の相続人となり、遺産すべての決定権を持つ。 」

Rudolf-Steiner : Marie-Steiner


■ シュタイナーが友に送った詩

ベルリンの友へ         

人は見る
この世で作られた目で
それで人が目にするものは
こうして人を縛り付ける
この世の快楽と、この世の絶望に
それは、そこに生命として芽吹く
すべてのものに、しかし、とりわけ
あの暗き深淵へと
落ち行くすべてのものに、人を縛り付ける
しかし、
人は見る、 霊性に委ねられた目で
人が見るものは、こうして人を結び付ける
霊的な希望と、霊性に支えられた力へと
それは人を永遠の内に根差す
すべてのものに結び付ける
そして永遠の内にその果実を実らせる
しかし、
人がその時見ることができるのは
人が内的な目そのものを神から与えられた
霊性の器官と感じるとき
その器官は魂の焦点により
人間の体の神殿の内で
神々の行為を全うする
人間は神の最奥のことを忘れている
しかし、私達はそれを引き上げ
私達の意識にまで上らせ、光で溢れさせ
そして、
塵と埃の中から引き上げ身につける
人の心に神的な炎を
どうか、稲妻よ
私達の感覚から作られた家を
粉々にしてくれ。
そこに、私達は知識の上に築かれた
魂の家を建てるだろう
鉄のように堅く、光で織られた織物の上に
そして、外部の崩壊と入れ違いに
魂の最奥が立ちのぼってくるだろう
苦痛は物的な影響力の諸力から
私達の身にふりかかってくるものだが
しかし、
暗闇が私達を覆い隠す時でさえ
希望は輝き
そして、
それは、ある日
私達の記憶の中から現れ出て
ついに、暗闇の後、
私達は再び光の中で暮らせるだろう
私達はこの鮮明な輝きが
未来の明るさにおいて
私達に否定されないことを望む
なぜならば、今のところ
私達は苦しみの内にあり
それを私達の魂に植え付けていないから


ルドルフシュタイナー
DEN BERLINER FREUNDEN

Es siehet der Mensch
Mit dem welt-erzeugten Auge,
Ihn bindet, was er siehet
An Weltenfreude und Weltenschmerz,
Es bindet ihn an alles
Was da wir, aber minder nicht
An alles, was da sturzet
In Abgrundes finstre Reiche.

Es schaut der Mensch
Mit dem geistverliehnen Auge,
Ihn bindet, was er schauet
An Geisteshoffen und Geistes-Halte-Kraft,
Es bindet ihn an alles

Was in Ewigkeiten wurzelt
Und in Ewigkeiten Fruchte tragt.
Aber schauen kann der Mensch
Nur wenn er des Innern Auge
Selber fuhlet als Geistes-Gottes-Glied,
Das auf der Seele Schauplatz
Im Menschen-Leibes-Tempel
Der Gotter Taten wirket.

Es ist die Menschheit im Vergessen
An das Gottes-Innere.
Wir aber wollen es nehmen
In des Bewusstseins helles Licht
Und dann tragen uber Schutt und Asche
Der Gotter Flamme im Menschenherzen.

So Mogen Blitze unsre Sinneshauser
In Schutt zerschmettern:
Wir errichten Seelenhauser
Auf der Erkenntnis
Eisenfestem Lichtesweben,
Und Untergang des Aussern
Soll werden Aufgang
Des Seelen-Innersten.

Das Leid dringet heran
Aus Stoffes-Kraft Gewalten,
Die Hoffnung leuchtet
Auch wenn Finsternis uns umwallt,
Und sie wird dereinst
In unsre Erinnerung dringen
Wenn wir nach der Finsternis
Im Lichte wieder leben durfen.

Wir wollen nicht, dass diese Leuchte
Dereinst in kunft’gen Helligkeiten uns fehle
Weil wir sie jetzt im Leide
Nicht in unsere Seelen eingepflanzet haben.


Rudolf Steiner



《 別添資料 》

下記文字をクリック(タップ)

■ シュタイナー精神科学概論

■ シュタイナー建築

■ シュタイナーの黒板絵と色相環

■ シュタイナー書籍紹介

■ シュタイナーの瞑想

■ 宇宙・生命/宇宙進化論


END