八ヶ岳・富士見高原の風土と文化
信州・八ヶ岳富士見高原周辺散歩
富士見高原/花鳥風月
八ヶ岳/富士見高原の風土と文化
富士見高原ペンションビレジの歴史
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八ヶ岳南麓 富士見高原
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八ヶ岳は、長野県に縦に長く存在し、長野県も、太平洋側から日本海側に縦に細長く存在しています。
その八ヶ岳の南のはずれに位置する 所に富士見町はあります。
町の由来は、富士見町のホームページによると、昭和30年に富士見村、本郷村、境村、落合村が合併し、この4ヶ村からも共に日本一の富士山を望めることから「富士見町」の名称となったそうです。
”富士”が付く名前はありふれていますが、四ヶ村の中では一番納得する名前で、”日本一”にあやかりたいという、その頃の村民の意気込みが感じられます。
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尚、富士見町は、 長野県の南の端にありますので、北の端の新潟県に隣接している県庁所在地・長野市との距離感は、感覚的には東京よりも遠くに感じます。
又、富士見町の東端・八ヶ岳の一つ編笠山の中腹にある富士見高原は、山梨に隣接していて中央高速のインターは、山梨の小淵沢ICが最寄りになります。
買い物も山梨側に行くことが多く、 近場の観光地や駅も小淵沢駅で山梨県北杜市(小淵沢や大泉・清里 )には 道の駅・レストラン・コンビニ・乗馬 etc が 多くありますので、長野県というよりも地理的には隣接する山梨県という感覚になります。
私見ですが、諏訪地方の文化や風土は、諏訪高島城が武田氏による諏訪方面の支配拠点であったように、武田信玄以来山梨(甲斐)側に近いと思っています。
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富士見高原の観光としては、富士見高原リゾートがあります。
そこにはスキー場や彫刻の森・ユリ園・サッカー場・ゴルフ場 そして、鹿の湯という温泉施設があります。
リンク:日帰り温泉”鹿の湯”
富士見高原で食事をする所は、富士見高原リゾート内のレストラン、カントリーキッチンというレストランにお蕎麦の乙事亭があるだけですが、車で5~8分で行ける北杜市・小淵沢の道の駅周辺には多くのレストランや食堂、蕎麦屋がありますので、そちらに行くことになってしまいます。
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《 番外編 》
・・・ 森の中で生活するとこんなことも起こります。
40年前に植えた白樺が、大きくなりすぎ 且つ、根が腐り始めてしまいました。建物にすると3~4階分くらいの大きさです。
その大きくなってしまった白樺を人力で切断する”キコリ”さんの写真です。綱一本で天高く上っていき切っている写真を添付します。
”キコリ”さん達も都会からの移住者で、こちらで起業したそうです。
実際に見ていると感動モノでした!
富士見町/富士見高原病院
・・ サナトリウム
富士見町にある”富士見高原病院”は、昔結核の療養所/サナトリウムでここに入院していたのが、堀辰雄や菊池寛、横溝正史、竹久夢二、矢野綾子などの方や昭和の棋聖と称され戦後日本囲碁界を牽引した呉清源も療養していて作家の川端康成が度々お見舞いに訪ねて来ていたようです。
それから山岳文学の山口耀久,随筆家の伊藤礼,童話作家で詩人の 岸田衿子と多くの作家が療養しています。
堀辰雄は、この地で有名な「風立ちぬ」を執筆し、菊池寛は新聞小説「街の灯」を執筆しています。
竹久夢二は、この富士見高原療養所・サナトリウムで昭和9年9月1日に数え五十歳で亡くなっていますので、富士見高原療養所が終焉の地になったのです。
又、その当時の院長が、経営は厳しかった高原療養所の名を広めるために、長野県佐久の同郷出身で作家仲間の久米正雄に,療養所を舞台にした小説「月よりの使者」の執筆を依頼しています。
昭和8年月刊誌の新年号から9月号に連載されると,大人気になり、翌年・同名の作品が女優入江たか子により映画化されて人気を博し,富士見高原療養所の名も全国的に知れ渡ります。
富士見町/信濃境
・・ 井戸尻遺跡
それに、縄文文化のにおいがする高原でもあります。
近くの信濃境には、井戸尻考古館があり縄文遺跡の竪穴住居などが展示されています。
又、 少し足を延ばせば、茅野市尖石縄文考古館があります。
そこには有名な”縄文のビーナス”とよばれる国宝の土偶が展示されています。
この周辺の地は、縄文文化遺跡のメッカでもあります。
ざっと書くとこのような地です。
凄い文豪や遺跡に関わりのある地であり、高原なのです!
八ヶ岳
富士見高原ペンションビレッジ
この地にあるのが、八ヶ岳・富士見高原ペンションビレッジで、富士見町が開発を昭和57年(1982年)に完了し販売しています。
一つ一つの土地にオールウエザーのテニスコート一面が付いています。
・・・ 今から40年前です。
富士見高原ペンションビレッジは、中央に”信玄棒道”がありその上下にペンションや建物が建つように25件の土地が用意されました。
現在では半分以上が入れ替わり、三代目の方たちもいます。
その地に最初(昭和57年)に契約し、建物も最初に建てて今日まで 何とか生存しているのが、ヴィラ フロムナウ クラブ です。
下の写真は、信玄棒道を中央にして森に囲まれたビレッジの姿です。
富士見高原ペンションビレッジ ・・・
自然に囲まれたところで あり、40年間の歴史ある”村”です。
40年!
富士見町・小淵沢周辺の変化と共に色々な思い出があります。
昔は本当に何もない田舎でした。
吉幾三さんの、「俺ら東京さ行ぐだ」の歌詞のような世界でした。
その田舎に憧れ、足を踏み入れました。
良かったのか、悪かったのかは分かりませんが、 今は便利になり都会と変わりなく生活できます。
方言もなく、ほとんどの方が東京弁で、コンビニだって、ホームセンターだって、西友だって、100円ショップだってなんだってあるんです。
今じゃ、田舎ブームで「俺ら田舎さ行ぐだ」 です。
富士見高原のペンションビレッジ は、原村に日本で最初のペンションビレッジが出来、そのすぐ後に出来ました。
その頃は、ペンションブーム、テニスブームでテニスコートを一面以上確保するのに大変な思い出があります。
それが今では、お荷物的な存在になっているのが正直なところですので、ビレッジの方々とはこのテニスコートを何とか使い道がないかと思案しています。
ブームというものは去ってしまうと、寂しさやそのものの影が残ります。
しかし、この地は自然に恵まれ、地の利も良い場所ですので、満足に営業も出来なくなってきていますが、体と相談しながら何とかこれからもこの地に根を張っていきたいと思っています。
END